四国霊場の宗派について

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更新日:2017/01/26

私は、四国霊場の札所はすべて真言宗と思っていた。しかし、このHPを作り上げていく過程で分かったことは、四国霊場88カ寺の宗派は真言宗だけではないことだ!!!。なぜだろうと思い、札所の宗派を調べた。その結果は次のとおりであった。

真言宗:80ヶ寺
臨済宗: 2ヶ寺
曹洞宗: 1ヶ寺
天台宗: 4ヶ寺
時宗 : 1ヶ寺

88カ寺のうち8カ寺が真言宗以外の宗派である。なぜ他宗派となったのか?その理由は。

臨済宗、曹洞宗が3カ寺ある。
(1)11番札所藤井寺:臨済宗妙心寺派
天正年間(1573?92)の兵火により全山を焼失、江戸時代初期まで衰微した。その後、延宝2年(1674)に阿波藩主が帰依していた臨済宗の南山国師が入山して再興し、その折に宗派を臨済宗に改めている。

(2)15番札所国分寺:曹洞宗
寛保元年(1741)に阿波藩郡奉行、速水角五郎によって伽藍が再建されていらい、現在の禅宗・曹洞宗寺院となっている。

(3)33番札所雪蹊寺:臨済宗妙心寺派
弘法大師によって弘仁6年に開創されたころは真言宗で、「高福寺」と称した。その後、寺名を「慶運寺」と改めているが、廃寺となっていた寺を再興したのは戦国時代の土佐領主・長宗我部元親公で、元親の宗派である臨済宗から月峰和尚を開山として初代住職に招き、中興の祖とした。

天台宗が霊場に4カ寺ある。
(1)43番札所明石寺:天台寺門宗
弘仁13年(822)には弘法大師がこの地を訪ねている。荒廃した伽藍を見た大師は、嵯峨天皇(在位809?    823)に奏上して勅命を受け、金紙金泥の『法華経』を納めて、諸堂を再興した。その後、鎌倉時代になってか ら再び荒れ果てた伽藍の修復に当たったのは、源頼朝である。建久5年(1194)、頼朝は命の恩人である池 禅尼の菩提を弔って阿弥陀如来像を奉納、また経塚をきずいて、山号の現光山を「源光山」に改めた。

(2)76番札所金蔵寺:天台寺門宗
金倉寺は、弘法大師の甥で天台宗寺門派の開祖「智証大師」が誕生した地。縁起によると、弘法大師が生まれた宝亀5年に智証大師の祖父・和気道善(わけどうぜん)が建立し、道善は「自在王堂」と名づけ、仁寿元年(851)11月に官寺となった際に開基の名をとって「道善寺」となりました。その後、唐から帰朝した智証大師 が唐の青龍寺にならって伽藍を造営、薬師如来を刻んで本尊に。「金倉寺」になったのは928年、醍醐天皇の勅命で、地名の金倉郷にちなんだ寺名となったようです。

(3)82番札所根来寺:天台宗
根香寺は後白河天皇の帰依も厚く隆盛を極めました。後に、高松藩主らにより再興され、この時に天台宗へ 改宗されました。

(4)87番札所長尾寺:天台宗
長きに渡り多くの天皇から帰依された寺でしたが、天正の兵火により、本堂以外は灰燼に帰します。江戸時 代に藩主松平頼重が、堂塔を整備。その時に天台宗に改めています。

時宗が1カ寺ある。その理由は?
(1)78番郷照寺:時宗
京都・醍醐寺の開山として知られる理源大師(聖宝・832?909)がこの寺に籠山し修行したのは仁寿年間(851? 54)とされ、また、浄土教の理論的基礎を築いた恵心僧都(源信・942?1017)が霊告を受けて釈迦如来の絵を奉納し、釈迦堂を建立したのは寛和年間(985?87)とされている。さらに、仁治4年(1243)には『南海流浪記』の著者である高野山の道範阿闇梨が流罪となったとき、この寺を仮寓にした。「時宗」の開祖・一遍上人(1239?89)は、正応元年(1288)に3ヵ月ほど逗留して踊り念仏の道場を開くなど、真言・念仏の2教の
法門が伝わることになり、八十八ヶ所の中で特異な霊場となる。なお、道場寺を「郷照寺」と改めたのは、寛文4年(1664)のことである。
※【四国八十八カ所霊場会 公式ホームページ資料を引用】


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