真念庵&洲崎寺

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更新日:2017/01/27

Ⅰ.宥辨 真念(ゆうべん しんねん、出生年は不明、没年は1692年〈元禄5年〉、または1691年〈元禄4年〉の説もある)
四国88カ所を特定し、現在の「発願の寺」・1番札所(霊山寺)から「結願所」(けち〈つ〉がんしょ)・88番札所(大窪寺)までの巡礼の札所番号を定めたのは、江戸時代初期の高野聖。その生涯の長らくにわたり四国八十八箇所の巡拝を行うとともに、それにまつわる様々な活動を行って四国遍路を広く人々に知らしめたことから「遍路の父」「四国遍路中興の祖」と云われる。土佐国の生まれとされ、遍路巡拝を行わない時には大阪の寺嶋で暮らし、自らを抖そうする頭陀と称した(Wikepedia資料引用)。

Ⅱ.真念庵
真念庵は38番札所金剛福寺から39番札所延光寺への遍路道途上約27㎞地点にある。
真念庵 は江戸時代前期の天和年間(1681年 – 1683年)に大坂寺嶋(現在の大阪市中央区空堀商店街付近)在住で土佐出身と言われる真念によって大師堂が建立されたと伝えられている。

真念庵(2016.5)
真念庵(2016.5)
市野瀬分岐点。 階段を上り真念庵への遍路道へ(2016.5)
市野瀬分岐点。 階段を上り真念庵への遍路道へ(2016.5)

真念庵が建立された市野瀬地区は、札所間の距離が最も長い37番札所岩本寺と38番札所金剛福寺の中間地点にあり伊豆田峠の土佐清水側の麓にある。かつ、金剛福寺を打ち戻って39番札所延光寺に向かう途中にあたる。真念庵は、善根宿として、また、金剛福寺から打ち戻る遍路の荷物置き場として利用された。immb_3100

仏堂の前には、明治時代初期の庵主であった法印実道が四国を巡拝して浄財を集めて建立した88体の石仏が並んでいる。石仏を刻んだ石は地元民が集落の北にある山から切り出したものである。

真念庵前にある石仏群(2016.5)
真念庵前にある石仏群(2016.5)

納経は近くの大塚さん宅で

真念庵から真念庵納経所の大塚さん宅へ。大塚さん宅はこの右隣り(2016.5)
真念庵から真念庵納経所の大塚さん宅へ。大塚さん宅はこの右隣り(2016.5)
大塚さん宅縁側で真念庵の納経(2016.5)
大塚さん宅縁側で真念庵の納経(2016.5)

ここから金剛福寺までは7里(28km)ある。真念は金剛福寺までの遍路道に1丁間隔で道標として丁石を350基立てた。これは「足摺遍路道三百五十丁石」と呼ばれている。丁石の多くは美作国(岡山県北東部)、播磨国(兵庫県南西部)、摂津国(兵庫県南東部・大阪府北部)、地元の有志により立てられた。現代では道路工事などで多くが失われている。

Ⅲ.洲崎寺
洲崎寺は85番八栗寺へ向かう遍路道脇にある。84番札所屋島寺から山道を下り屋島裾野遍路道を辿り左折し最初の交差点に洲崎寺があり非常にわかりやすい。興味のある方は立ち寄ってみては?!。

洲崎寺にある真念法師墓所(2016.10)
洲崎寺にある真念法師墓所(2016.10)

以下Wikipedia資料引用:真念の墓所は、85番八栗寺のケーブルの麓(ふもと)にちかい高松市牟礼(むれ)町(旧木田郡牟礼町)の平安時代初期の大同年間(806~810年。この時代の天皇は51代平城〈へいぜい〉天皇、52代嵯峨天皇)に弘法大師(空海)により創建された洲崎寺(すざきじ=(四国八十八箇所番外札所、さぬき三十三観音霊場第二番札所)。源平屋島の戦いで扇の的を狙い撃つ那須与一が、必ず命中するようにと祈った「祈り岩」も寺のすぐ近にある)。
真念の墓は、当初JR讃岐牟礼駅から高松市立(旧牟礼町立)牟礼南小学校へ抜ける道の「明待(あけま)ちの丘」と呼ばれる丘陵の峠の「元結(もとゆい)」と呼ばれる大きな岩の付近にあったが、お参りしにくいという理由から1980(昭和55)年2月に洲崎寺に移されたという(『牟礼町史』)。

洲崎寺案内板(2016.4)
洲崎寺案内板(2016.4)
洲崎寺境内にある「真念和尚墓地」(2016.5)
洲崎寺境内にある「真念和尚墓地」(2016.5)

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