遍路道にある「『国指定 史跡』は19か所」はどこに?

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ブログUP日:2018/01/19

近頃、遍路道沿いにある「国指定   史跡」に関する記事を目にする。そこで本件について調べてみると「『国指定 史跡』である国史跡」は現時点で19か所。内訳は「遍路道:14か所」&「境内:5か寺」。その概要を調べてみたが、資料は少なく割と厄介であった。データの精度にはチョット自信がない???。また、残念ながら、遍路道周辺には、多くの場合、案内看板も無い。チョット整理をしてもらいたいなーーー。
ところで『史跡』について調べてみた。Wikipediaでは・・・


Ⅰ.遍路道:『国指定 史跡』は14か所、延長距離は約24㎞だ!。

1.12番焼山寺道/一宮道(2016.10.3) 1.9㎞

「焼山寺道」「一宮道」は神山町下分の第12番焼山寺周辺の遍路道,約1.9kmの区間である。古来,阿波では「一に焼山(しょうさん(焼山寺道),二にお鶴(つる)(鶴林寺道),三に太龍(太龍寺道)と言われ,焼山寺道は阿波の遍路道の難所の筆頭にあげられる。峻険なアップダウンを繰り返す山道は「遍路転(へんろころ)がし」と呼ばれ,江戸時代の書物にも,その様子が紹介される。全線 にわたり古道の景観をとどめる山中の道であり,沿道には焼山寺や藤井寺に至る丁石,道標や遍路墓などが数多く建ち並ぶ,阿波の遍路道で最も濃密に石造物が残る道である。
左右内からの登り 文政3年(1821年)の石碑
左右内からの登り 文政3年(1821年)の石碑
あと7丁(ここから平らな遍路道)
焼山寺まであと7丁(ここから平らな遍路道)

2.18番恩山寺/19番立江寺道(2016.10.3) 0.9㎞

小松島市では初となる国史跡で指定範囲は約900mです。
遍路道の主要ルートである土佐街道から離れ、恩山寺に向う恩山寺道の一部と恩山寺から立江寺へ向かい土佐街道に再び合流するまでの間の立江寺道で、遍路道であるとともに周辺住民の生活道としても利用されている古道です。
恩山寺周辺の遍路道に関しては、承応2年(1653)澄禅による『四国遍路日記』に「大道ヨリ右ノ谷ヘ入ル事五丁斗ニシテ二王門アリ、夫ヨリ二町斗行キテ本堂二至ル・・」と記述があります。また、恩山寺道・立江寺道には平家追討のため四国に上陸した源義経一行の伝承が残る「弦張坂」、「弦巻坂」があり中世期の石造物も点在し、周辺には県指定天然物「恩山寺ビランジュ」や市指定文化財「釈迦庵の仏足石」があります。
景観・石造物・伝承と歴史・文化を現在まで伝える古道であるといえます。
仁王門から本堂への遍路道(2016.4)
恩山寺仁王門から本堂への遍路道(2016.4)
立江寺への弦巻坂(2016.2)
立江寺への弦巻坂(2016.2)

3.20番鶴林寺道(2010.8.5)1.27㎞

麓から仁王門までは、約4km。そのうち、水呑(みずのみ)大師から仁王門の1,269mは「鶴林寺道」と呼ばれ、2010年8月に遍路道で初めて国史跡に指定された。鶴林寺道には本堂までの距離が何町(1町は約110m)あるかを刻んだ石の柱「丁石」が13基あり、そのうち11基は南北朝時代(1300年代)のものとされる。
国史跡「太龍寺道」起点(2017.7)
国史跡「太龍寺道」起点(2017.7)
七丁石付近の遍路道はGoo(2017.7)
七丁石付近の遍路道はGoo(2017.7)

4.21番太龍寺道(2010.8.5)2.5㎞

鶴林寺から水井橋を経由し太龍寺に向う約7㎞の遍路道 。平成21 年に四国で初めてその一部が国の史跡となった遍路道。江戸時代から現代にいたるまで多くの歩きのお遍路さんが往来し 道筋には太龍寺までの距離を示す「舟形丁石」が建ち並ぶ。 山道を進む険しい道で古くから遍路道の難所と して知られている。
21番太龍寺への下りの遍路道(2016.2)
21番太龍寺への下りの遍路道(2016.2)
国史跡太龍寺登り遍路道(2016.3)
国史跡太龍寺登り遍路道(2016.3)

5.21番太龍寺かも道(2015.10.7)1.34㎞

かも道は全長4.4㎞のうち1.34㎞が指定された。四国遍路最古の遍路道と考えられており、貞治年間(1362~67年)に設けられた丁石(札所までの距離を示す道標)が多く残る。 
長期間、廃道となっていたが、市などが2010年から調査を実施。 
地元住民らにも呼び掛けて整備し復活させた。

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6.22番平等寺いわや道(2010.8.5)2.7㎞

太龍寺から「南舎心嶽」を経由し、かつて存在した「龍の窟」へと向かう遍路道で、「平等寺道」分岐地点までの約3㎞の道。江戸時代には多くのお遍路さんが歩いていた主要なルートであった。道沿いには「舟形丁石」などの歴史的な石造物が良好に残されている。2013年3月27日に2.09㎞追加
いわや道:江戸時代の丁石が(2016.3)
いわや道:江戸時代の丁石が(2016.3)
いわや新道を行くお遍路(2016.3)
いわや新道を行くお遍路(2016.3)

7.22番平等寺平等道(2013.3.27)0.66㎞

平等寺道(いわや道分岐から阿瀬比町の遍路小屋までの山道)
「いわや道」の26丁石から分岐する古道で、平等寺を結ぶ遍路道である。「いわや道」分岐地点から山道をぬけて桑野町阿瀬比集落までは約2.5㎞。「いわや道」分岐から800mはなだらかな道だが、急に下り坂となるので注意が必要。この区間に舟形39丁石が一つ残る。

8.36番清龍寺道(2016.6.17)塚地峠:1.6km

35 番札所清瀧寺から 36 番札所青龍寺に向かう道の途中の約 1.6㎞からなる峠道で、開発を免れた昔ながらの風景を保つ数少ない遍路道のひとつであり、道しるべなど貴重な石造物が数多く残されていることでも知られています。
史跡起点:案内板と19世紀前半の石碑(2016.6)
史跡起点:案内板と19世紀前半の石碑(2016.6)
江戸期の綺麗に整備された(2016.6)
江戸期の綺麗に整備された遍路道(2016.6)

9.42番佛木寺道(2016.6.17)龍光寺西の尾根:0.45㎞

仏木寺道は、宇和島市の41番龍光寺(三間町戸雁)から42番仏木寺(同町則)までの遍路道。今回指定されるのは龍光寺西の尾根を横断し県道31号に至る山道約450m。道沿いには江戸時代後期の遍路墓が残るなど旧状をとどめており、文化元(1804)年の遍路記「海南四州紀行」に「是(これ)ヨリ山坂アリ急ナラス路辺炎魔堂アリ」と言及されている。
仏木寺へは、墓地の遍路道を経て山道へ(2106.12)
仏木寺へは、墓地の遍路道を経て山道へ(2106.12)
墓地の遍路道から山道の遍路道へ(2016.12)
墓地の遍路道から山道の遍路道へ(2016.12)

10.60番横峰寺道(2016.6.17)湯浪休憩所~五丁石~頂上:2.1㎞

横峰寺道は、59番国分寺(今治市国分4丁目)から60番横峰寺(西条市小松町石鎚)に至る区間で、指定は横峰寺北西の「湯浪休憩所」付近から「五丁石」付近までの山道約1,700m(一部区間を除く)。道際には舟形や角柱形の丁石とともに「文化12(1815)年」「文政2(1819)年」と刻まれた江戸時代の遍路墓もある。
88の札所をつなぐ四国遍路道は全長約1400㎞に及び、4県の中でも愛媛は延長500㎞以上と最も長い。今回指定された仏木寺道、横峰寺道について、文化審議会は「いずれも遺存状況が良好で、伊予における遍路道の実態を考える上で重要」と評価した。
2017年10月13日、五丁石~境内:0.4㎞追加
横峰寺への登り口。手前に水場(2016.4)
横峰寺への登り口。手前に水場(2016.4)
標高差約350mを登り、仁王門へ(2016.4)
標高差約350mを登り、仁王門へ(2016.4)

11.65番三角寺奥之院道/別格13番札所仙龍寺(2017.6.17)3.8㎞

奥之院道は、四国88ケ所霊場第65番札所三角寺(愛媛県四国中央市金田町)から三角寺奥之院仙龍寺(愛媛県四国中央市新宮町馬立)を経て第66番札所雲辺寺)(徳島県三好市池田町)に至る道の一部である。
『四国遍路道指南』(貞享4年〔1687〕)、『四国遍路霊場記』(元禄2年〔1689〕)では三角寺には大師堂がなく、奥之院本堂が三角寺の大師堂と見做されていた。そのため、第65番札所三角寺で本尊十一面観世音菩薩に詣り、次いで弘法大師に参拝するため奥之院仙龍寺に寄ってから、次の札所第66番札所雲辺寺に向かった。今回、三角寺の境内を出たところから、4丁石までの間、約3.8kmを指定する。
別格13番:地蔵峠への遍路道(2016.5)
別格13番:地蔵峠への遍路道(2016.5)
昔生活道/今遍路道(2017.11)
昔生活道/今遍路道(2017.11)

12.66番雲辺寺道(2017.2.9)2.16km

66番札所雲辺寺に至る遍路道のうち,約2.16kmの区間である。急峻な山道であり,沿道に残る数多くの丁石や道標と相まって,古道の景観を色濃くとどめる。
佐野集落から山道へ(2017.6.24)
佐野集落から山道へ(2017.6.24)
遍路脇の舟形丁石(2017.6.24)
遍路脇の舟形丁石(2017.6.24)

13.72番曼荼羅寺道(2015.10.6)0.9㎞

71番札所弥谷寺(三豊市三野町)と72番札所曼荼羅寺(善通寺市吉原町)を結ぶ遍路道は曼荼羅寺道と呼ばれ、道中では行き先を記した丁石や石造物を見ることが出来ます。このうち、弥谷寺へ向かう石段を上った分岐のあたりから善通寺市碑殿町の蛇谷池の堤までの区間は、約0.9kmの山間部を通る未舗装の道となり、歴史的な面影が残る古道を歩くことができます。
江戸時代に記された『四国遍礼名所図会』や、明治時代に大日本帝國陸地測量部によって作成された地形図などと比較すると、現在の曼荼羅寺道の道程は近世以降ほとんど変わっていないことが判っています。現在でもお遍路さんが歩いており、昔からの巡礼の風景が垣間見えます。
茶屋を直進、72番札所曼陀羅寺への道しるべが(2016.4)
茶屋を直進、72番札所曼陀羅寺への道しるべが(2016.4)
史跡 遍路道
史跡 遍路道

14.82番根香寺道(2013.10.17)2.3㎞

高松市と坂出市にまたがる五色台にあ り,歴史的な面影を残し,道沿いには道標(どうひょう) ・丁石(ちょうせき)等の石造物が残っています。道標は,主に白峯寺から根香寺の遍路道と別の札所寺院へ遍路道が分岐する場所に設置されています。丁石も道標と同様に重要な構成要素で,白峯寺から根香寺間の遍路道沿いに約 109m間隔で50基設置されていたようで,現在も41基が確認できます。
史跡遍路道 14世紀の摩尼輪塔(2016.5)
史跡遍路道 14世紀の摩尼輪塔(2016.5)
80番への分岐点 19丁(2016.5)
80番への分岐点 19丁(2016.5)

Ⅱ.境内編(5か所)

①.20番鶴林寺境内(2017.2.9)

「鶴林寺境内」(勝浦町)は第20番札所鶴林寺の境内地約4.6ha。標高490m付近に位置する山林寺院で,参道である鶴林寺道(国史跡)に建つ南北朝期の丁石が歴史の古さを物語る。
鶴林寺仁王門(2016.3)
鶴林寺仁王門(2016.3)
静寂できれいに清められた参道(2017.7)
静寂できれいに清められた参道(2017.7)

②.21番太龍寺境内(2017.2.9)

「太龍寺境内」(阿南市)は第21番札所太龍寺の境内地約6ha。標高約500m付近に所在する山林寺院で,「三教指帰」に登場する,史料上確認できる数少ない,空海修行の地である。鶴林寺とともに札所寺院として四国遍路の成立や発展過程を考える上で重要であり,諸堂と周辺の山林が一体となった景観は往時の四国霊場の趣を現在に伝える。
階段右脇に南北朝期の丁石(2017.7)
仁王門階段右脇に南北朝期の丁石(2017.7)
21番札所太龍寺太子堂(2017.7)
21番札所太龍寺太子堂(2017.7)

③.稲荷神社境内及び41番龍光寺境内(2017.6.17)

四国八十八ケ所霊場第41番札所龍光寺は、愛媛県宇和島市三間町字戸雁に所在する真言宗御室派の寺院で、江戸時代までの神仏習合の面影を色濃く伝えている霊場である。明治時代初期の神仏分離までは稲荷社が札所であった。
稲荷神社本殿等の建築様式から18世紀後半の建築とされ、隣接する旧観音堂(現廣田神社)の建物も、その建築様式から18世紀初頭とされており、江戸時代中期には稲荷社としての今日に続く景観が成立していた。なお、江戸時代前期には既に、「立光寺」という名前で神宮寺としての龍光寺が成立していた。
参道。正面は神社。札所はどこ???
参道。正面は神社。札所はどこ???
墓地から龍光寺全景(21016.12)
墓地から龍光寺全景(21016.12)

④.60番札所横峰寺境内(2017.6.17)

四国八十八ケ所霊場第60番札所横峰寺は、愛媛県西条市小松町石鎚にあり、真言宗御室派の寺院で石鎚信仰にもかかわる霊場である。その創立については、明確な史料を欠いているが、同寺に所蔵されている金銅蔵王権現御正体(みしょうたい)(愛媛県指定有形文化財(工芸品)、昭和40年4月2日指定)は鍍金銅製で、平安時代末期頃の製作と推定されており、その頃までに石鎚山を信仰の対象とする山岳信仰の霊場として成立していた可能性が高い。
明治時代の廃仏毀釈により廃寺になるが、明治末年に現在地に復興され今日に至っている。
横峰寺仁王門(2016.4)
横峰寺仁王門(2016.4)
横峰寺本堂(2016.4)
横峰寺本堂(2016.4)

⑤.75番善通寺境内(2017.6.17)

弘法大師の生誕地として信仰を集める。
南大門と五重塔(2016.5)
南大門と五重塔(2016.5)
重要文化財 本堂(2016.5)
重要文化財 本堂(2016.5)

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