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ブログUP日:2018/09/07
「四国遍路の遷り変り」 修行の地四国・成立/四国遍路の大衆化/観光遍路/遍路の多様化・国際化へ 4+αに分け整理
Ⅰ.修行の地四国から四国遍路の成立へ(5XX~江戸期)
Ⅱ.四国遍路が一般人に開かれる(168X年~1940年代)
Ⅲ.観光遍路(車)の時代/歩き遍路衰退(戦後~昭和/平成?)
Ⅳ.遍路の多様化/国際化(昭和/平成~)
Ⅴ.「四国88か所遍路 大衆/普及の父『真念/中務茂兵衛』」&□□「四国別格20霊場」について
そのⅠは、修行の地四国から四国遍路の成立へ(5XX~江戸期)
修行の地・四国(5XX~)
古代から、都から遠く離れた四国は辺地(へじ・へぢ)と呼ばれていた。平安時代頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生まれた若き日の空海もその一人であったといわれている。空海の入定後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。これが四国遍路の原型とされる。時代が経つにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。 (Wikipedia抜粋)
四国遍路の成立(8XX~)
四国霊場を開創したのは、信仰上、空海が42歳の厄年の弘仁6年(815年)とされているが、史実ではない。ほかに、空海の死後、弟子の真済(800-860)が遺跡を巡拝したとあるが伝承の域である。その後、平安時代末期に『今昔物語集』や『梁塵秘抄』に四国辺地修行したことが書かれていたり、聖宝(832-909)や重源(1121-1206)も四国で辺地修行をし、西行は1167年に崇徳上皇を祀った白峰御陵(白峰寺)参拝をしているが、成立している形跡はない。 鎌倉時代に入ると、道範(1178-1252)が『南海流浪記』に、空海遺跡を参拝したことが書かれていたり、一遍(1239-1289)も遺跡を廻ったことが記されているが、これらは断片的で全体としての成立がなされていないことを示している。室町時代になると僧侶の修行としての巡拝だったのが、庶民にも広がったと云われている。なお、室町末期の僧・増吽(1366-1452)は、道隆寺住職の後、天皇寺住職を務め、四国の多くの社寺を復興したことから四国遍路の成立に関わっていても不思議でない。江戸時代初期になると、賢明の寛永15年(1638年)に巡拝した記録『空性法親王四国霊場御巡行記』には、現在とほぼ同じ札所がほぼ同じ順番で記されている。澄禅の日記(1653年巡拝)には、井戸寺からスタートしたものの、文中に「大師は阿波の北分十里十ケ所、霊山寺を最初にして阿波土佐伊予讃岐と順に・・」と書かれているように、番号こそ記されてないが、霊山寺が最初の札所であるのが当時慣例だったのがうかがい知れる。 (Wikipedia抜粋)
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<p style=”text-align: right;”>ブログUP日:2018/09/04</p>
<strong>「四国遍路の遷り変り」</strong>について4+αに分け整理
<span style=”color: #0000ff;”><strong>Ⅰ.修行の地四国から四国遍路の成立(5XX~江戸期)</strong></span>
<strong><a href=”http://ohenro.jp/blog/arukihenro/welcome/kb011/” target=”_blank”>Ⅱ.四国遍路が一般人に開かれる(168X年~1940年代)</a></strong>
<strong><a href=”http://ohenro.jp/blog/arukihenro/welcome/kb012/” target=”_blank”>Ⅲ.観光遍路(車)の時代/歩き遍路衰退(戦後~平成中期?)</a></strong>
<a href=”http://ohenro.jp/blog/arukihenro/welcome/kb013/” target=”_blank”><strong>Ⅳ.遍路の多様化/国際化(平成中期~)</strong></a>
<a href=”http://ohenro.jp/blog/arukihenro/welcome/kb014/” target=”_blank”><strong>Ⅴ.「四国88か所遍路 大衆/普及の父『真念/中務茂兵衛』」&<span style=”color: #ffffff;”>□□</span>「四国別格20霊場」について</strong></a>
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<span style=”color: #0000ff;”><strong>そのⅠは、修行の地四国から四国遍路の成立(5XX~江戸期)</strong></span>
<strong>修行の地・四国(5XX~)</strong>
古代から、都から遠く離れた四国は辺地(へじ・へぢ)と呼ばれていた。<a title=”平安時代” href=”https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3″>平安時代</a>頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生まれた若き日の空海もその一人であったといわれている。空海の<a title=”入定” href=”https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E5%AE%9A”>入定</a>後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。これが四国遍路の原型とされる。時代が経つにつれ、空海ゆかりの地に加え、<a title=”修験道” href=”https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E9%A8%93%E9%81%93″>修験道</a>の修行地や<a title=”足摺岬” href=”https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E6%91%BA%E5%B2%AC”>足摺岬</a>のような<a title=”” href=”https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%9C%E9%99%80%E6%B4%9B%E5%B1%B1%E5%AF%BA#補陀洛渡海”>補陀洛渡海</a>の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。 (Wikipedia抜粋)
<strong>四国遍路の成立(8XX~)</strong>
四国霊場を開創したのは、信仰上、空海が42歳の厄年の弘仁6年(815年)とされているが、史実ではない。ほかに、空海の死後、弟子の真済(800-860)が遺跡を巡拝したとあるが伝承の域である。その後、平安時代末期に『今昔物語集』や『梁塵秘抄』に四国辺地修行したことが書かれていたり、聖宝(832-909)や重源(1121-1206)も四国で辺地修行をし、西行は1167年に崇徳上皇を祀った白峰御陵(白峰寺)参拝をしているが、成立している形跡はない。 鎌倉時代に入ると、道範(1178-1252)が『南海流浪記』に、空海遺跡を参拝したことが書かれていたり、一遍(1239-1289)も遺跡を廻ったことが記されているが、これらは断片的で全体としての成立がなされていないことを示している。室町時代になると僧侶の修行としての巡拝だったのが、庶民にも広がったと云われている。なお、室町末期の僧・増吽(1366-1452)は、道隆寺住職の後、天皇寺住職を務め、四国の多くの社寺を復興したことから四国遍路の成立に関わっていても不思議でない。江戸時代初期になると、賢明の寛永15年(1638年)に巡拝した記録『空性法親王四国霊場御巡行記』には、現在とほぼ同じ札所がほぼ同じ順番で記されている。澄禅の日記(1653年巡拝)には、井戸寺からスタートしたものの、文中に「大師は阿波の北分十里十ケ所、霊山寺を最初にして阿波土佐伊予讃岐と順に・・」と書かれているように、番号こそ記されてないが、霊山寺が最初の札所であるのが当時慣例だったのがうかがい知れる。 (Wikipedia抜粋)
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「四国遍路の遷り変り」について3つの時代に分け整理s
Ⅰ.修行の地四国から大衆四国遍路へ(江戸期~昭和30年前後)
Ⅱ.観光遍路の時代(戦後~平成中期?)
Ⅲ.遍路の多様化/国際化(平成後期~)
Ⅳ.「四国88か所遍路 大衆/普及の父『真念/中務茂兵衛』」
そのⅠでは、修行の地四国から大衆四国遍路へ(江戸期~昭和30年前後)について
修行の地・四国(6XX年~)
古代から、都から遠く離れた四国は辺地(へじ・へぢ)と呼ばれていた。平安時代頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生まれた若き日の空海もその一人であったといわれている。空海の入定後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。これが四国遍路の原型とされる。時代が経つにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。 (Wikipedia抜粋)
四国霊場の成立(8XX~)
四国霊場を開創したのは、信仰上、空海が42歳の厄年の弘仁6年(815年)とされているが、史実ではない。ほかに、空海の死後、弟子の真済(800-860)が遺跡を巡拝したとあるが伝承の域である。その後、平安時代末期に『今昔物語集』や『梁塵秘抄』に四国辺地修行したことが書かれていたり、聖宝(832-909)や重源(1121-1206)も四国で辺地修行をし、西行は1167年に崇徳上皇を祀った白峰御陵(白峰寺)参拝をしているが、成立している形跡はない。 鎌倉時代に入ると、道範(1178-1252)が『南海流浪記』に、空海遺跡を参拝したことが書かれていたり、一遍(1239-1289)も遺跡を廻ったことが記されているが、これらは断片的で全体としての成立がなされていないことを示している。室町時代になると僧侶の修行としての巡拝だったのが、庶民にも広がったと云われている。なお、室町末期の僧・増吽(1366-1452)は、道隆寺住職の後、天皇寺住職を務め、四国の多くの社寺を復興したことから四国遍路の成立に関わっていても不思議でない。江戸時代初期になると、賢明の寛永15年(1638年)に巡拝した記録『空性法親王四国霊場御巡行記』には、現在とほぼ同じ札所がほぼ同じ順番で記されている。澄禅の日記(1653年巡拝)には、井戸寺からスタートしたものの、文中に「大師は阿波の北分十里十ケ所、霊山寺を最初にして阿波土佐伊予讃岐と順に・・・・」と書かれているように、番号こそ記されてないが、霊山寺が最初の札所であるのが当時慣例だったのがうかがい知れる。 (Wikipedia抜粋)
四国霊場が一般人へ開かれる(168X~)
・初めて札所番号と全札所のご詠歌を記したのは、真念によって1687年版行された『四國邊路道指南(しこくへんろみちしるべ)』の流布により本格的な修行者が行っていた遍路が一般人にも開かれることになった。また、手の形の矢印で順路を示した遍路道の石造の道しるべも篤志家によってこの時期に設置され始めたといわれる。
江戸初期から戦後1940年代???までは、聖地巡礼者である僧侶、信者の他、諸国からハンセン病患者、食い詰めた「乞食遍路(差別用語)」と呼ばれる者たちが四国へ流れ込んで物乞い・強盗をはたらくなどの不埒な者も多かったため、当時の遍路は差別的な目で見られていた可能性があると思われる。 (Wikipedia抜粋)
・昭和8年(1933年)藤井寺麓の遍路宿生まれのSさんに話を聞いた昭和30年頃までは6件の遍路宿があった。Sさんの実家は8部屋、布団は150程度準備。雑魚寝が普通。食事は一汁三菜。お彼岸さん前後には多くのお遍路さんが宿泊。らい病患者、乞食遍路は宿には泊めてもらえず、仁王門周辺等で雨露を凌いでいたそうだ。また、焼山寺への山道は長蛇の列に。
とある歩き遍路は昭和24年(1949年)生まれ。実家は「18番札所恩山寺遍路道より0.5㎞程東側にある」。幼少期の頃 (昭和30年頃)、お遍路さんが沿道の民家を托鉢。托鉢に来たお遍路さんに少しのお米を恐る恐る手渡し。幼少期、お遍路さんは物もらい/怖いものだと思っていた。
2016年5月、写真撮影遍路で宇和島城を訪れた時、宇和島城観光ガイドさんに江戸期の宇和島城下の遍路事情を聞くことができた。『宇和島藩は、馬目木大師北側の神田川脇に「南の番所」。別格06番龍光院に「北の番所」を設け、城下に出入りする旅人を管理。お遍路さんに対しては、藩内の滞在期間は7日以内。城下の通過を禁止し、神田川沿い左回りの遍路道を辿って龍光院へ行かせる等厳しい面もあった。一方、お遍路途中、藩内で病気等困ったことがあれば庄屋等に申し出ることと御触れを出している」とのこと。
・戦前までの遍路宿は旅籠。大部屋、雑魚寝。食事は一汁三菜
現存する遍路旅籠は45番札所岩屋寺から第46番札所 浄瑠璃寺に向かう途中に遍路休憩所「坂本屋」があります。当時、「坂本屋」は立派な旅籠であったのでは???。通常の旅籠はもう少し・・・
この時代、「疫病持ちのお遍路、乞食遍路?」も多く、地元の住民はこれらのお遍路の対応には苦慮したであろう???。お遍路事情に詳しい人たちの意見等から「問題?!?お遍路さんを隔離する宿が存在していたとのこと。 ・・・『善根宿であったのかな???』」
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