四国遍路の遷り変り(その2:四国遍路が一般人に開かれる)

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ブログUP日:2018/09/10

「四国遍路の遷り変り」 修行の地四国・成立/四国遍路の大衆化/観光遍路/遍路の多様化・国際化へ 4+αに分け整理
Ⅰ.修行の地四国から四国遍路の成立(5XX~江戸期)
Ⅱ.四国遍路が一般人に開かれる(168X年~1940年代)
Ⅲ.観光遍路の時代/歩き遍路衰退(戦後~昭和/平成?)
Ⅳ.遍路の多様化/国際化(昭和/平成~)
Ⅴ.「四国88か所遍路 大衆/普及の父『真念/中務茂兵衛』」&□□「四国別格20霊場」について


そのⅡは、四国遍路が一般人に開かれる(江戸期~昭和30年前後)

四国遍路が一般人へ開かれる(168X~)
・初めて札所番号と全札所のご詠歌を記したのは、真念によって1687年版行された『四國邊路道指南(しこくへんろみちしるべ)』の流布により本格的な修行者が行っていた遍路が一般人にも開かれることになったまた、手の形の矢印で順路を示した遍路道の石造の道しるべも篤志家によってこの時期に設置され始めたといわれる。
江戸期から戦後1940年代???までは、聖地巡礼者である僧侶、信者の他、諸国からハンセン病患者、食い詰めた「乞食遍路(差別用語)」と呼ばれる者たちが四国へ流れ込んで物乞い・強盗をはたらくなどの不埒な者も多かったため、当時の遍路は差別的な目で見られていた可能性があると思われる。 (Wikipedia抜粋)


・昭和8年(1933年)藤井寺麓の遍路宿生まれのSさんに話を聞いた昭和30年頃までは6件の遍路宿があった。Sさんの実家は8部屋、布団は150程度準備。雑魚寝が普通。食事は一汁三菜。お彼岸さん前後には多くのお遍路さんが宿泊。らい病患者、乞食遍路は宿には泊めてもらえず、仁王門周辺等で雨露を凌いでいたそうだ。また、焼山寺への山道は長蛇の列に。
・とある歩き遍路は昭和24年(1949年)生まれ。実家は「18番札所恩山寺遍路道より0.5㎞程東側にある」。幼少期の頃 (昭和30年頃)、お遍路さんが沿道の民家を托鉢。托鉢に来たお遍路さんに少しのお米を恐る恐る手渡し。幼少期、お遍路さんは物もらい/怖いものだと思っていた。
・2016年5月、写真撮影遍路で宇和島城を訪れた時、宇和島城観光ガイドさんに江戸期の宇和島城下の遍路事情を聞くことができた。『宇和島藩は、馬目木大師北側の神田川脇に「南の番所」。別格06番龍光院に「北の番所」を設け、城下に出入りする旅人を管理。お遍路さんに対しては、藩内の滞在期間は7日以内。城下の通過を禁止し、神田川沿い左回りの遍路道を辿って龍光院へ行かせる等厳しい面もあった。一方、お遍路途中、藩内で病気等困ったことがあれば庄屋等に申し出ることと御触れを出している」とのこと。
・戦前までの遍路宿は旅籠。大部屋、雑魚寝。食事は一汁三菜
現存する遍路旅籠は45番札所岩屋寺から第46番札所 浄瑠璃寺に向かう途中に遍路休憩所「坂本屋」があります。当時、「坂本屋」は立派な旅籠であったのでは???。通常の旅籠はもう少し・・・

坂本屋(2017.10)
坂本屋(2017.10)
案内板(2017.10)
案内板(2017.10)

当時、「疫病持ちのお遍路、乞食遍路?」も多く、地元の住民はこれらのお遍路の対応には苦慮したであろう???。お遍路事情に詳しい人たちの意見等から「問題?!?お遍路さんを隔離する宿が存在していたとのこと。・・・・・・『善根宿があったのかな???』」

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