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ブログUP日:2018/09/04
「四国遍路の遷り変り」 修行の地四国・成立/四国遍路の大衆化/観光遍路/遍路の多様化・国際化へ 4+αに分け整理
Ⅰ.修行の地四国から四国遍路の成立へ(5XX~江戸期)
Ⅱ.四国遍路が一般人に開かれる(168X年~1940年代)
Ⅲ.観光遍路(車)の時代/歩き遍路衰退(戦後~昭和/平成?)
Ⅳ.遍路の多様化/国際化(昭和/平成~)
Ⅴ.「四国88か所遍路 大衆/普及の父『真念/中務茂兵衛』」&□□「四国別格20霊場」について
そのⅠは、修行の地四国から四国遍路の成立へ(5XX~江戸期)
修行の地・四国(5XX~)
古代から、都から遠く離れた四国は辺地(へじ・へぢ)と呼ばれていた。平安時代頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生まれた若き日の空海もその一人であったといわれている。空海の入定後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。これが四国遍路の原型とされる。時代が経つにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。 (Wikipedia抜粋)
四国遍路の成立(8XX~)
四国霊場を開創したのは、信仰上、空海が42歳の厄年の弘仁6年(815年)とされているが、史実ではない。ほかに、空海の死後、弟子の真済(800-860)が遺跡を巡拝したとあるが伝承の域である。その後、平安時代末期に『今昔物語集』や『梁塵秘抄』に四国辺地修行したことが書かれていたり、聖宝(832-909)や重源(1121-1206)も四国で辺地修行をし、西行は1167年に崇徳上皇を祀った白峰御陵(白峰寺)参拝をしているが、成立している形跡はない。 鎌倉時代に入ると、道範(1178-1252)が『南海流浪記』に、空海遺跡を参拝したことが書かれていたり、一遍(1239-1289)も遺跡を廻ったことが記されているが、これらは断片的で全体としての成立がなされていないことを示している。室町時代になると僧侶の修行としての巡拝だったのが、庶民にも広がったと云われている。なお、室町末期の僧・増吽(1366-1452)は、道隆寺住職の後、天皇寺住職を務め、四国の多くの社寺を復興したことから四国遍路の成立に関わっていても不思議でない。江戸時代初期になると、賢明の寛永15年(1638年)に巡拝した記録『空性法親王四国霊場御巡行記』には、現在とほぼ同じ札所がほぼ同じ順番で記されている。澄禅の日記(1653年巡拝)には、井戸寺からスタートしたものの、文中に「大師は阿波の北分十里十ケ所、霊山寺を最初にして阿波土佐伊予讃岐と順に・・」と書かれているように、番号こそ記されてないが、霊山寺が最初の札所であるのが当時慣例だったのがうかがい知れる。 (Wikipedia抜粋)
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