「遍路予備知識」タグアーカイブ

関東方面からの区切り遍路さんへ『阿波路 便利な夜行バス』

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ブログUP日:2018/11/10

中年遍路さんは長期休暇取得が難しい?!?のかな?!?、区切り遍路が多い。「めだかの里」前で歩き遍路さんと世間話。関東地区からのお遍路さんとの世間話から「とある歩き遍路」が感じたことがある。それは、関東方面からの区切りお遍路さんの徳島へのアクセス方法である。割と新幹線/飛行機での徳島入りが多い。

中年の区切り遍路さんは3泊4日前後の日程が多いように感じる。関東からのお遍路さんで新幹線/飛行機利用だと初日と最終日の半日は移動時間となり実遍路日数は3日となる。
徳島地区をお遍路する時、「とある歩き遍路」は夜行バスを推奨する。
夜行バス利用すると、初日は朝7時前後から行動開始。また、終日は夕方6時頃まで行動が可能なのだ!!!!。しかし、夜行バスなので疲れる。また、帰宅時、汚れた状態でバスでの就寝は疲れが取れないと感じる?!?。「あるき遍路」も同感!!!。

首都圏と徳島地区を運行している「夜行バス」は多い。その一つ、 高速乗合バス 海部観光株式会社はわずか12席。座席は、パーティションで一席ずつ仕切られ、カーテンを閉めればほぼ個室感覚となるタイプのバス等を運行。また、徳島バスターミナルにはシャワー設備を完備。残念ながら阿南バスターミナル(22番札所平等寺から約5㎞?)には無い。お遍路後はシャワーを浴びリラックスし乗車。帰宅/仕事に。また、運賃も超デラックスで13,000円程度から。通常の夜行バスタイプは一万円前後と鉄道/飛行機に比べ格安だ!?!。
夜行バス利用により鉄道/飛行機と比較し、一回の区切り遍路で約1日多く活用可能となる。休暇を利用しての区切り歩き遍路にとっては非常にありがたいのでは!?!。
例えばバス 1日目:8時頃から遍路開始。最終日:17時頃まで。
鉄道飛行機 1日目:11時?~。最終日:12時頃まで?。

徳島高速バス東京便はここ  JR高速バス東京便はここ

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歩き遍路必需品 & 調達方法につて

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更新日:2018/10/25

歩き遍路に必要な用品は大きく分けて、①遍路用品1(菅笠、輪袈裟、白衣、頭陀袋、金剛杖、納め札、持鈴、数珠)、②遍路用品2(線香、ローソク、ライター)、③遍路地図④装備品(リックサック、靴、ソックス、雨具、衣類)、⑤その他装備品(保険証、ライト、カメラ、常備薬、筆記用具類等々)。
これら用品の詳細には「何があるの?!?」。いろんなサイトで紹介していますが、「とある歩き遍路」は次のサイトを参考にしてもらいたいと思うのであります。
NO1:   徳島県観光情報サイト「四国遍路」
  □(歩き遍路に関するあらゆる情報が濃縮)
NO2: 三十路女性による四国遍路の旅持物・宿情報等)


歩き遍路用品の調達方法としては、Ⅰ.身近な商店等で調達する用品。Ⅱ.スポーツ店等で調達する用品。Ⅲ.販売場所が限定され専門店で調達する用品」に分けられる?!?と「とある歩き遍路」は感じています?!?!。

Ⅰ.身近な商店等で調達する用品は、
②遍路用品2(線香、ローソク、ライタ)&⑤その他装備品(ライト、カメラ、筆記用具、テーピング用品等)があります。

Ⅱ.スポーツ店等で調達する用品は、
④装備品(リックサック、靴、ソックス、雨具、衣類)。これらの用品はスポーツ用品店でアドバイスを受け購入することをお勧めします。
特に靴についてはランニングシューズでもなく登山靴でもなく靴底がしっかりしていて踝(くるぶし)を固定しない「トレッキングシューズ」をお勧めします。靴下も重要。すべりの少ない5本指用がお勧めだよ。また、靴擦れ対応にテーピング知識も取得しておこうね!!!。

Ⅲ.販売場所が限定されている用品は、
①遍路用品1(菅笠、輪袈裟、白衣、頭陀袋、金剛杖、持鈴、数珠、納め札)&③遍路地図。その用品の調達場所は、四国霊場売店、四国内の仏具店、ネット販売等がある。

標準的な遍路装束(2018.10)
標準的な遍路装束(2018.10)
左:2018.10版素晴らしい地図 右:2016.4版日本版地図(2018.10)
左:2018.10版素晴らしい地図 右:2016.4版日本版地図(2018.10)

今回、徳島地区4か所の遍路用品販売店についてチョット調査!。
1.一番札所霊山寺販売所

一番札所販売所(2018.10)
一番札所販売所(2018.10)

それは無いよ??? 納経済の納経帳を販売(2018.10)
それは無いよ??? 納経済の納経帳販売は(2018.10)

2.一番札所霊山寺傍の「門前一番街」

一番札所傍「門前一番街」(2018.10)
一番札所傍「門前一番街」(2018.10)

門前一番街全景(2018.10)
門前一番街全景(2018.10)

3.二番札所金泉寺販売所「長寿庵」

二番札所販売所「長寿庵」(2018.10)
二番札所販売所「長寿庵」(2018.10)

長寿庵風景(2018.10)
長寿庵風景(2018.10)

4.10番札所手前「浅野総本店スモトリ屋」

切幡寺門前街(2018.10)
切幡寺門前街(2018.10)

浅野総本店(2018.10)
浅野総本店(2018.10)

浅野総本店店内(2018.10)
浅野総本店店内(2018.10)


多くのお遍路さんは、これらの用品は一番札所霊山寺で調達しているようであるが!?!・・・・・・
とある歩き遍路は、これら用品の販売所4か所を調査???!!!!してみた。「第一番札所霊山寺売店は販売量が多いためか霊山寺オリジナル用品が多いように感じる????。。多くの用品『白衣、頭陀袋等』は車遍路仕様かな???。チョット品質に・・・・・」とある歩き遍路は感じる。また、それ以外の用品も価格は他店より高価であると感じる。
特に歩き遍路の白衣は生地はしっかりしたものが良いと『とある歩き遍路』は感じている。特に浅野総本店は白衣、頭陀袋等歩き遍路に適している品物が豊富に整っているのかな!!!と感じる。
調査結果が現状をキチット把握できているとは確信できないが???例えば
・「白衣」:一番札所販売所は、袖有2,700円、生地は薄目? 
10番札所手前浅野総本店スモトリ屋の生地はしっかりとしている。袖有2,000円から。歩き遍路はしっかりした生地を推奨!

しっかりした生地の白衣(2018.10)
しっかりした生地の白衣(2018.10)

・「納め札」:一番札所霊山寺販売所は、100枚 216円。ほかの
3か所は70円から120円。霊山寺は本当に・・・・・????

納め札(2018.10)
納め札(2018.10)

・「輪袈裟」:一番札所霊山寺販売所は2,700円。浅野総本店スモトリ屋は1,200円~。ほかの2か所は1,500円~

輪袈裟(2018.10)
輪袈裟(2018.10)

・「金剛杖 般若心経プリント」:一番札所霊山寺販売所は
2,808円?。ほかの3か所は1,500円~

金剛杖(2018.10)
金剛杖(2018.10)

・「頭陀袋」:種類は多い。車遍路要は小型??。歩き遍路用は大きめでしっかりしたものをお勧め。一番札所霊山寺販売所は歩き遍路用の品数が少ないように感じる。二番札所、浅野総本店スモトリ屋は歩き遍路用の頭陀袋は豊富にあるよ!?!。

頭陀袋(2018.10)
頭陀袋(2018.10)

・特に疑問に感じるのは「納経帳」。納経帳には「一番札所霊山寺の納経」が既に行われている。納経はお勤めを終えた証として行う作法。それが参拝する前に「納経済みの御朱印」が。これに疑問を感じるのは「とある歩き遍路」だけでしょうか。この声は「とある歩き」・・・・・・。

納経帳(2018.10)
納経帳(2018.10)

それは無いよ??? 納経済の納経帳を販売(2018.10)
それは無いよ??? 納経済の納経帳を販売(2018.10)

遍路地図は一般書店では購入できない。特定の遍路用品売り場もしくはインターネット販売に頼るしかない。         遍路地図は英語版「Shikoku Japan 88 Route Guide」がGoo!!!。日本語版地図に遍路宿情報等を上書き。英語が読めなくてもOK。「とある歩き遍路」はこの英語版地図を推奨する。浅野総本店スモトリ屋は品揃えしているよ。英語版の素晴らしさはここをクリックして確認してね!!!。

左:第5版 右:最新版2018.9(2018.10)
左:第5版 右:最新版2018.9(2018.10)

4販売所(「一番札所総合案内所」「一番札所傍門前一番街」「二番札所長寿庵」「10番札所手前 浅野総本店スモトリ屋」)の遍路用品価格比較表は

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お遍路の皆さん、どこで調達します???。
現地で調達も一つの手段ですが、事前に情報を収集し、    納経帳、地図、納札、数珠等最小必要限の品物はネット調達(例えば安価で高品質の用品が調達できる浅野総本店スモトリ屋)もしくは一番札所付近で調達してね!!!。
菅笠、金剛杖等は様子を見ながら10番札所切幡寺手前まで歩いて品数豊富、品質Goo、安価で適切な助言の得られる「浅野総本店スモトリ屋」で調達する方法を「とある歩き」は推奨します!!? 是非、電話もしくはNETで相談して自分に適した用品を調達してね!!!。
その他、門前一番街、1番札所、2番札所、6番札所等で購入する等いろんな方法が考えられるよ!!!。

また、歩き遍路に必要な携行品を6㎏までにおさえる方法を知りたい方は、「三十路女による四国遍路の旅」サイトの『準備』コーナが参考になるよ!!!。

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四国霊場の遷り変り(その1:修行の地四国から四国遍路の成立へ)

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ブログUP日:2018/09/07

「四国遍路の遷り変り」 修行の地四国・成立/四国遍路の大衆化/観光遍路/遍路の多様化・国際化へ 4+αに分け整理
Ⅰ.修行の地四国から四国遍路の成立へ(5XX~江戸期)
Ⅱ.四国遍路が一般人に開かれる(168X年~1940年代)
Ⅲ.観光遍路(車)の時代/歩き遍路衰退(戦後~昭和/平成?)
Ⅳ.遍路の多様化/国際化(昭和/平成~)
Ⅴ.「四国88か所遍路 大衆/普及の父『真念/中務茂兵衛』」&□□「四国別格20霊場」について


そのⅠは、修行の地四国から四国遍路の成立へ(5XX~江戸期)

修行の地・四国(5XX~)
古代から、都から遠く離れた四国は辺地(へじ・へぢ)と呼ばれていた。平安時代頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生まれた若き日の空海もその一人であったといわれている。空海の入定後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。これが四国遍路の原型とされる。時代が経つにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。 (Wikipedia抜粋)

四国遍路の成立(8XX~)
四国霊場を開創したのは、信仰上、空海が42歳の厄年の弘仁6年(815年)とされているが、史実ではない。ほかに、空海の死後、弟子の真済(800-860)が遺跡を巡拝したとあるが伝承の域である。その後、平安時代末期に『今昔物語集』や『梁塵秘抄』に四国辺地修行したことが書かれていたり、聖宝(832-909)や重源(1121-1206)も四国で辺地修行をし、西行は1167年に崇徳上皇を祀った白峰御陵(白峰寺)参拝をしているが、成立している形跡はない。 鎌倉時代に入ると、道範(1178-1252)が『南海流浪記』に、空海遺跡を参拝したことが書かれていたり、一遍(1239-1289)も遺跡を廻ったことが記されているが、これらは断片的で全体としての成立がなされていないことを示している。室町時代になると僧侶の修行としての巡拝だったのが、庶民にも広がったと云われている。なお、室町末期の僧・増吽(1366-1452)は、道隆寺住職の後、天皇寺住職を務め、四国の多くの社寺を復興したことから四国遍路の成立に関わっていても不思議でない。江戸時代初期になると、賢明の寛永15年(1638年)に巡拝した記録『空性法親王四国霊場御巡行記』には、現在とほぼ同じ札所がほぼ同じ順番で記されている。澄禅の日記(1653年巡拝)には、井戸寺からスタートしたものの、文中に「大師は阿波の北分十里十ケ所、霊山寺を最初にして阿波土佐伊予讃岐と順に・・」と書かれているように、番号こそ記されてないが、霊山寺が最初の札所であるのが当時慣例だったのがうかがい知れる。 (Wikipedia抜粋)

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<p style=”text-align: right;”>ブログUP日:2018/09/04</p>
<strong>「四国遍路の遷り変り」</strong>について4+αに分け整理
<span style=”color: #0000ff;”><strong>Ⅰ.修行の地四国から四国遍路の成立(5XX~江戸期)</strong></span>
<strong><a href=”http://ohenro.jp/blog/arukihenro/welcome/kb011/” target=”_blank”>Ⅱ.四国遍路が一般人に開かれる(168X年~1940年代)</a></strong>
<strong><a href=”http://ohenro.jp/blog/arukihenro/welcome/kb012/” target=”_blank”>Ⅲ.観光遍路(車)の時代/歩き遍路衰退(戦後~平成中期?)</a></strong>
<a href=”http://ohenro.jp/blog/arukihenro/welcome/kb013/” target=”_blank”><strong>Ⅳ.遍路の多様化/国際化(平成中期~)</strong></a>
<a href=”http://ohenro.jp/blog/arukihenro/welcome/kb014/” target=”_blank”><strong>Ⅴ.「四国88か所遍路 大衆/普及の父『真念/中務茂兵衛』」&<span style=”color: #ffffff;”>□□</span>「四国別格20霊場」について</strong></a>

<hr />

<span style=”color: #0000ff;”><strong>そのⅠは、修行の地四国から四国遍路の成立(5XX~江戸期)</strong></span>

<strong>修行の地・四国(5XX~)</strong>
古代から、都から遠く離れた四国は辺地(へじ・へぢ)と呼ばれていた。<a title=”平安時代” href=”https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3″>平安時代</a>頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生まれた若き日の空海もその一人であったといわれている。空海の<a title=”入定” href=”https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E5%AE%9A”>入定</a>後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。これが四国遍路の原型とされる。時代が経つにつれ、空海ゆかりの地に加え、<a title=”修験道” href=”https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E9%A8%93%E9%81%93″>修験道</a>の修行地や<a title=”足摺岬” href=”https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E6%91%BA%E5%B2%AC”>足摺岬</a>のような<a title=”” href=”https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%9C%E9%99%80%E6%B4%9B%E5%B1%B1%E5%AF%BA#補陀洛渡海”>補陀洛渡海</a>の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。 (Wikipedia抜粋)

<strong>四国遍路の成立(8XX~)</strong>
四国霊場を開創したのは、信仰上、空海が42歳の厄年の弘仁6年(815年)とされているが、史実ではない。ほかに、空海の死後、弟子の真済(800-860)が遺跡を巡拝したとあるが伝承の域である。その後、平安時代末期に『今昔物語集』や『梁塵秘抄』に四国辺地修行したことが書かれていたり、聖宝(832-909)や重源(1121-1206)も四国で辺地修行をし、西行は1167年に崇徳上皇を祀った白峰御陵(白峰寺)参拝をしているが、成立している形跡はない。 鎌倉時代に入ると、道範(1178-1252)が『南海流浪記』に、空海遺跡を参拝したことが書かれていたり、一遍(1239-1289)も遺跡を廻ったことが記されているが、これらは断片的で全体としての成立がなされていないことを示している。室町時代になると僧侶の修行としての巡拝だったのが、庶民にも広がったと云われている。なお、室町末期の僧・増吽(1366-1452)は、道隆寺住職の後、天皇寺住職を務め、四国の多くの社寺を復興したことから四国遍路の成立に関わっていても不思議でない。江戸時代初期になると、賢明の寛永15年(1638年)に巡拝した記録『空性法親王四国霊場御巡行記』には、現在とほぼ同じ札所がほぼ同じ順番で記されている。澄禅の日記(1653年巡拝)には、井戸寺からスタートしたものの、文中に「大師は阿波の北分十里十ケ所、霊山寺を最初にして阿波土佐伊予讃岐と順に・・」と書かれているように、番号こそ記されてないが、霊山寺が最初の札所であるのが当時慣例だったのがうかがい知れる。 (Wikipedia抜粋)

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「四国遍路の遷り変り」について3つの時代に分け整理s
Ⅰ.修行の地四国から大衆四国遍路へ(江戸期~昭和30年前後)
Ⅱ.観光遍路の時代(戦後~平成中期?)
Ⅲ.遍路の多様化/国際化(平成後期~)
Ⅳ.「四国88か所遍路 大衆/普及の父『真念/中務茂兵衛』」


そのⅠでは、修行の地四国から大衆四国遍路へ(江戸期~昭和30年前後)について

修行の地・四国(6XX年~)
古代から、都から遠く離れた四国は辺地(へじ・へぢ)と呼ばれていた。平安時代頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生まれた若き日の空海もその一人であったといわれている。空海の入定後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。これが四国遍路の原型とされる。時代が経つにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。 (Wikipedia抜粋)

四国霊場の成立(8XX~)
四国霊場を開創したのは、信仰上、空海が42歳の厄年の弘仁6年(815年)とされているが、史実ではない。ほかに、空海の死後、弟子の真済(800-860)が遺跡を巡拝したとあるが伝承の域である。その後、平安時代末期に『今昔物語集』や『梁塵秘抄』に四国辺地修行したことが書かれていたり、聖宝(832-909)や重源(1121-1206)も四国で辺地修行をし、西行は1167年に崇徳上皇を祀った白峰御陵(白峰寺)参拝をしているが、成立している形跡はない。 鎌倉時代に入ると、道範(1178-1252)が『南海流浪記』に、空海遺跡を参拝したことが書かれていたり、一遍(1239-1289)も遺跡を廻ったことが記されているが、これらは断片的で全体としての成立がなされていないことを示している。室町時代になると僧侶の修行としての巡拝だったのが、庶民にも広がったと云われている。なお、室町末期の僧・増吽(1366-1452)は、道隆寺住職の後、天皇寺住職を務め、四国の多くの社寺を復興したことから四国遍路の成立に関わっていても不思議でない。江戸時代初期になると、賢明の寛永15年(1638年)に巡拝した記録『空性法親王四国霊場御巡行記』には、現在とほぼ同じ札所がほぼ同じ順番で記されている。澄禅の日記(1653年巡拝)には、井戸寺からスタートしたものの、文中に「大師は阿波の北分十里十ケ所、霊山寺を最初にして阿波土佐伊予讃岐と順に・・・・」と書かれているように、番号こそ記されてないが、霊山寺が最初の札所であるのが当時慣例だったのがうかがい知れる。 (Wikipedia抜粋)

四国霊場が一般人へ開かれる(168X~)
・初めて札所番号と全札所のご詠歌を記したのは、真念によって1687年版行された『四國邊路道指南(しこくへんろみちしるべ)』の流布により本格的な修行者が行っていた遍路が一般人にも開かれることになったまた、手の形の矢印で順路を示した遍路道の石造の道しるべも篤志家によってこの時期に設置され始めたといわれる。
江戸初期から戦後1940年代???までは、聖地巡礼者である僧侶、信者の他、諸国からハンセン病患者、食い詰めた「乞食遍路(差別用語)」と呼ばれる者たちが四国へ流れ込んで物乞い・強盗をはたらくなどの不埒な者も多かったため、当時の遍路は差別的な目で見られていた可能性があると思われる。 (Wikipedia抜粋)

・昭和8年(1933年)藤井寺麓の遍路宿生まれのSさんに話を聞いた昭和30年頃までは6件の遍路宿があった。Sさんの実家は8部屋、布団は150程度準備。雑魚寝が普通。食事は一汁三菜。お彼岸さん前後には多くのお遍路さんが宿泊。らい病患者、乞食遍路は宿には泊めてもらえず、仁王門周辺等で雨露を凌いでいたそうだ。また、焼山寺への山道は長蛇の列に。
とある歩き遍路は昭和24年(1949年)生まれ。実家は「18番札所恩山寺遍路道より0.5㎞程東側にある」。幼少期の頃 (昭和30年頃)、お遍路さんが沿道の民家を托鉢。托鉢に来たお遍路さんに少しのお米を恐る恐る手渡し。幼少期、お遍路さんは物もらい/怖いものだと思っていた。
2016年5月、写真撮影遍路で宇和島城を訪れた時、宇和島城観光ガイドさんに江戸期の宇和島城下の遍路事情を聞くことができた。『宇和島藩は、馬目木大師北側の神田川脇に「南の番所」。別格06番龍光院に「北の番所」を設け、城下に出入りする旅人を管理。お遍路さんに対しては、藩内の滞在期間は7日以内。城下の通過を禁止し、神田川沿い左回りの遍路道を辿って龍光院へ行かせる等厳しい面もあった。一方、お遍路途中、藩内で病気等困ったことがあれば庄屋等に申し出ることと御触れを出している」とのこと。
・戦前までの遍路宿は旅籠。大部屋、雑魚寝。食事は一汁三菜
現存する遍路旅籠は45番札所岩屋寺から第46番札所 浄瑠璃寺に向かう途中に遍路休憩所「坂本屋」があります。当時、「坂本屋」は立派な旅籠であったのでは???。通常の旅籠はもう少し・・・

坂本屋(2017.10)
坂本屋(2017.10)
案内板(2017.10)
案内板(2017.10)

この時代、「疫病持ちのお遍路、乞食遍路?」も多く、地元の住民はこれらのお遍路の対応には苦慮したであろう???。お遍路事情に詳しい人たちの意見等から「問題?!?お遍路さんを隔離する宿が存在していたとのこと。  ・・・『善根宿であったのかな???』」

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