<<=トップ戻る
<<=前へ(四国遍路の概要) 次へ(仏教宗派)=>>
更新日:2018/09/07
「四国遍路の遷り変り」 修行の地四国・成立/四国遍路の大衆化/観光遍路/遍路の多様化・国際化へ 4+αに分け整理
Ⅰ.修行の地四国から四国遍路の成立(5XX~江戸期)
Ⅱ.四国遍路が一般人に開かれる(168X年~1940年代)
Ⅲ.観光遍路の時代/歩き遍路衰退(戦後~昭和/平成?)
Ⅳ.遍路の多様化/国際化(昭和/平成~)
Ⅴ.「四国88か所遍路 大衆/普及の父『真念/中務茂兵衛』」&□□「四国別格20霊場」について
そのⅤでは「四国88か所遍路大衆化/普及の父『真念/中務茂兵衛』」&「四国別格20霊場」について
1.四国88か所遍路普及の父
(1)真念
◇四国八十八カ所を特定し、現在の「発願の寺」・1番札所(霊山寺)から「結願所」(けち〈つ〉がんしょ)・88番札所(大窪寺)までの巡礼の札所番号を定めたのは、大坂(阪)の宥?真念(ゆうべんしんねん。生没年不詳 16XX年)といわれている。江戸時代にあっては、大坂から四国へ渡るには淡路島を経由し鳴門から四国入りするのが普通であったことから、撫養(むや=徳島県鳴門市の中心地区撫養川河口にあり、古くから畿内〈きない=奈良県の全域と、京都府の南部、大阪府の大部分、兵庫県の南東部〉と阿波〈あわ=徳島県)を結ぶ交通の要地であった)の港に最も近い霊山寺を第1番札所と定めたという。
・昔の畿内から四国への交通路は:紀州賀太-(海路)-淡路由良-淡路福良‐(海路)-阿波撫養
・真念が建立した遍路宿として現在も残っているのが、高知県土佐清水市市野瀬の真念庵である。
・真念が設置した遍路道の標石には、左右に刻字があり、それに墨を入れた見やすくし、さらに手印を付けたうえに里数や大師像を刻むなど創意工夫が凝らされていた。そうした標石が当時は200基を越したといわれているが、現在四国で37基、香川県内では12基(観音寺市で55基、高松、善通寺両市で2基ずつ、さぬき、三豊市、丸亀市で1基)が発見されている(2011年1月現在)。
・真念の墓所は、85番八栗寺のケーブルの麓(ふもと)にちかい高松市牟礼(むれ)町(旧木田郡牟礼町)の平安時代初期の大同年間(806~810年。この時代の天皇は51代平城〈へいぜい〉天皇、52代嵯峨天皇)に弘法大師(空海)により創建された洲崎寺(すざきじ=(四国八十八箇所番外札所、さぬき三十三観音霊場第二番札所)。源平屋島の戦いで扇の的を狙い撃つ那須与一が、必ず命中するようにと祈った「祈り岩」も寺のすぐ近にある)。
・真念の墓は、当初JR讃岐牟礼駅から高松市立(旧牟礼町立)牟礼南小学校へ抜ける道の「明待(あけま)ちの丘」と呼ばれる丘陵の峠の「元結(もとゆい)」と呼ばれる大きな岩の付近にあったが、お参りしにくいという理由から1980(昭和55)年2月に洲崎寺に移されたという(『牟礼町史』)。
(2)中務茂兵衛(なかつかさもへい=本名・中司亀吉)
・1845(弘化2)年に周防(すおう)国大島郡椋野(むくの)村(現・山口県久賀町椋野)の庄屋の3男として生まれ、何不自由なく育ったが、幕末の1866(慶応2)年、突然故郷を出て三津浜港(松山市)に上陸、 以後一度も故郷に帰ることなく、22歳から78歳まで、ひたすら信心一筋に遍路を続け、遍路に暮れる人生を57年間も過ごし、人々から生き仏として慕われた。四国遍路は徒歩だけで279度の四国遍路を満行(まんぎょう)した四国遍路の大先達(注:HP 四国遍路の父引用)
2.四国別格二十霊場
空海(弘法大師)は四国に、四国八十八箇所のほかにも数多くの足跡を残されていて、それらは番外霊場として人々の信仰を集めてきた。それらの番外霊場のうち20の寺院が集まって、1968年(昭和43年)に霊場として創設されたものが四国別格二十霊場(しこくべっかくにじゅうれいじょう)である。 四国八十八箇所霊場に四国別格二十霊場を加えると百八となり、人間の百八煩悩と同じになることから「煩悩を滅するのもよし」と、この霊場を四国八十八箇所と合わせて参拝することを薦めている。(注:ウィキペディア引用) なお、今年(2018年)は、別格霊場開創五十周年。歴史は浅いんだね。
<<=トップ戻る
<<=前へ(四国遍路の概要) 次へ(仏教宗派)=>>