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ブログUP日:2020/06/03
めだかの里周辺で 5月に確認した歩き遍路は20名(日本人は17名、外国人は3名)。外国人は日本在住の英会話学校の先生等。日本人は 多くがコロナウイルス非常事態宣言前に逆打ちで歩き遍路を始めたお遍路さん。これらの日本人遍路が困ったことは、殆どのお遍路宿は営業自粛していた。また、善根宿、通夜堂も閉鎖されていた。 歩き遍路さんは県外からの流入者であるためバイ菌扱いされ ビジネスホテル等でもトラブルに。宿泊場所確保には苦労したそうだ。
江戸期から戦後1940年代までは、聖地巡礼者である僧侶、信者の他、諸国からハンセン病患者、食い詰めた「乞食遍路(差別用語)」と呼ばれる者たちが四国へ流れ込んで物乞い・強盗をはたらくなどの不埒な者も多かったため、当時の遍路は差別的な目で見られていた可能性があると思われる。 (Wikipedia抜粋)
昭和8年(1933年)藤井寺麓の遍路宿生まれのSさんに話を聞いた。昭和30年頃まで、藤井寺周辺には8件の遍路宿があった。Sさんの実家は遍路宿。8部屋、布団は150程度準備。雑魚寝が普通。お彼岸さん前後には多くのお遍路さんが宿泊。らい病患者、結核患者、乞食遍路等は宿には泊めてもらえず、仁王門周辺等で雨露を凌いでいたそうだ。
とある歩き遍路は昭和24年(1949年)生まれ。実家は「18番札所恩山寺遍路道より0.5㎞程東側にある」。幼少期の頃 (昭和30年頃)、お遍路さんが沿道の民家を托鉢。とある歩き遍路は托鉢に来たお遍路さんに手渡しを避け少しのお米等を恐る恐る・・。幼少期、お遍路さんは物もらい/怖いものだと思っていた。
2016年5月、遍路道調査の際、宇和島城を訪れた。宇和島城観光ガイドさんに江戸期の宇和島城下の遍路事情を聞くことができた。宇和島藩は、馬目木大師北側の神田川脇に「南の番所」。別格06番龍光院に「北の番所」を設け、 城下の通過を禁止し、神田川沿い左回りの遍路道を辿って龍光院へ行かせ、 城下に出入りする旅人を厳しく管理。藩内の滞在期間は7日以内に限定。一方、お遍路途中、藩内で病気等困ったことがあれば「庄屋等に申し出ることと御触れを出している」とのこと。
昔は、「疫病持ち、乞食遍路?等のバイ菌遍路」も多く、地元の住民はこれらのバイ菌遍路の対応には苦慮したであろう???。お遍路事情に詳しい人たちの意見等から「各集落はこれらのバイ菌遍路が軒先等に野宿されることを避けるため集落の一角に、 これらのバイ菌遍路を隔離するための建物を設けた。この建物が善根宿であり・・・・・のかな???」。
昔、バイ菌遍路は嫌われ者ではあったが、必要な宿泊所等は確保されていたのかな?。しかし、今回のコロナウイルス騒動では、歩き遍路はバイ菌と見られ、どこにも避難所は無く、バイ菌そのもので❓、差別を❔受け、大変であったようで・・・。
昔の善根宿の役割は、現在の善根宿の役割とは異なる?。現在、無料の善根宿に若者遍路、外国人遍路が多く押しかけ、一部遍路は飲酒等で近隣に迷惑をかけるなどマナーを無視した行動が多々あり、善根宿主は失望を感じ閉鎖する事例も見られる❔。
今後、善根宿にあり方、ネーミングについては現在の状況を踏まえ・・・?。(とある歩き遍路)
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