四国遍路の遷り変り(その5:四国遍路普及の父/別格20霊場)

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更新日:2018/09/19

「四国遍路の遷り変り」 修行の地四国・成立/四国遍路の大衆化/観光遍路/遍路の多様化・国際化へ 4+αに分け整理
Ⅰ.修行の地四国から四国遍路の成立(5XX~江戸期)
Ⅱ.四国遍路が一般人に開かれる(168X年~1940年代)
Ⅲ.観光遍路の時代/歩き遍路衰退(戦後~昭和/平成?)
Ⅳ.遍路の多様化/国際化(昭和/平成~)
Ⅴ.「四国88か所遍路 大衆/普及の父『真念/中務茂兵衛』」&□□「四国別格20霊場」について


そのⅤでは「四国88か所遍路大衆化/普及の父『真念/中務茂兵衛』」&「四国別格20霊場」について

1.四国88か所遍路普及の父
(1)真念
◇四国八十八カ所を特定し、現在の「発願の寺」・1番札所(霊山寺)から「結願所」(けち〈つ〉がんしょ)・88番札所(大窪寺)までの巡礼の札所番号を定めたのは、大坂(阪)の宥?真念(ゆうべんしんねん。生没年不詳 16XX年)といわれている。江戸時代にあっては、大坂から四国へ渡るには淡路島を経由し鳴門から四国入りするのが普通であったことから、撫養(むや=徳島県鳴門市の中心地区撫養川河口にあり、古くから畿内〈きない=奈良県の全域と、京都府の南部、大阪府の大部分、兵庫県の南東部〉と阿波〈あわ=徳島県)を結ぶ交通の要地であった)の港に最も近い霊山寺を第1番札所と定めたという。
・昔の畿内から四国への交通路は:紀州賀太-(海路)-淡路由良-淡路福良‐(海路)-阿波撫養
・真念が建立した遍路宿として現在も残っているのが、高知県土佐清水市市野瀬の真念庵である。

真念庵前にある石仏群(2016.5)
真念庵前にある石仏群(2016.5)
真念庵(2016.5)
真念庵(2016.5)

・真念が設置した遍路道の標石には、左右に刻字があり、それに墨を入れた見やすくし、さらに手印を付けたうえに里数や大師像を刻むなど創意工夫が凝らされていた。そうした標石が当時は200基を越したといわれているが、現在四国で37基、香川県内では12基(観音寺市で55基、高松、善通寺両市で2基ずつ、さぬき、三豊市、丸亀市で1基)が発見されている(2011年1月現在)。

6-7番札所間にある17世紀の「真念しるべ石」(2016.6)
6-7番札所間にある17世紀の「真念しるべ石」(2016.6)
38-39番札所間にある真念しるべ石&真念遍路道起点(2016.5)
38-39番札所間にある真念しるべ石&真念遍路道起点(2016.5)


・真念の墓所は、85番八栗寺のケーブルの麓(ふもと)にちかい高松市牟礼(むれ)町(旧木田郡牟礼町)の平安時代初期の大同年間(806~810年。この時代の天皇は51代平城〈へいぜい〉天皇、52代嵯峨天皇)に弘法大師(空海)により創建された洲崎寺(すざきじ=(四国八十八箇所番外札所、さぬき三十三観音霊場第二番札所)。源平屋島の戦いで扇の的を狙い撃つ那須与一が、必ず命中するようにと祈った「祈り岩」も寺のすぐ近にある)。
・真念の墓は、当初JR讃岐牟礼駅から高松市立(旧牟礼町立)牟礼南小学校へ抜ける道の「明待(あけま)ちの丘」と呼ばれる丘陵の峠の「元結(もとゆい)」と呼ばれる大きな岩の付近にあったが、お参りしにくいという理由から1980(昭和55)年2月に洲崎寺に移されたという(『牟礼町史』)。

洲崎寺案内板(2016.4)
洲崎寺案内板(2016.4)
洲崎寺境内にある「真念和尚墓地」(2016.5)
洲崎寺境内にある「真念和尚墓地」(2016.5)

(2)中務茂兵衛(なかつかさもへい=本名・中司亀吉)
・1845(弘化2)年に周防(すおう)国大島郡椋野(むくの)村(現・山口県久賀町椋野)の庄屋の3男として生まれ、何不自由なく育ったが、幕末の1866(慶応2)年、突然故郷を出て三津浜港(松山市)に上陸、 以後一度も故郷に帰ることなく、22歳から78歳まで、ひたすら信心一筋に遍路を続け、遍路に暮れる人生を57年間も過ごし、人々から生き仏として慕われた。四国遍路は徒歩だけで279度の四国遍路を満行(まんぎょう)した四国遍路の大先達(注:HP 四国遍路の父引用)

立江寺手前の中務茂兵衛道しるべ(2017.2)
立江寺手前の中務茂兵衛道しるべ(2017.2)
玉泉院日割り脇に中務茂兵衛しるべ石(2017.2)
87番長尾寺手前玉泉院日割り脇に中務茂兵衛しるべ石(2017.2)

2.四国別格二十霊場
空海(弘法大師)は四国に、四国八十八箇所のほかにも数多くの足跡を残されていて、それらは番外霊場として人々の信仰を集めてきた。それらの番外霊場のうち20の寺院が集まって、1968年(昭和43年)に霊場として創設されたものが四国別格二十霊場(しこくべっかくにじゅうれいじょう)である。 四国八十八箇所霊場に四国別格二十霊場を加えると百八となり、人間の百八煩悩と同じになることから「煩悩を滅するのもよし」と、この霊場を四国八十八箇所と合わせて参拝することを薦めている。(注:ウィキペディア引用) なお、今年(2018年)は、別格霊場開創五十周年。歴史は浅いんだね。

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四国遍路の遷り変り(その4:遍路の多様化/外国人遍路の急増)

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ブログUP日:2018/09/16

「四国遍路の遷り変り」 修行の地四国・成立/四国遍路の大衆化/観光遍路/遍路の多様化・国際化へ 4+αに分け整理
Ⅰ.修行の地四国から四国遍路の成立(5XX~江戸期)
Ⅱ.四国遍路が一般人に開かれる(168X年~1940年代)
Ⅲ.観光遍路の時代/歩き遍路衰退(戦後~昭和/平成?)
Ⅳ.遍路の多様化/国際化(昭和/平成~)
Ⅴ.「四国88か所遍路 大衆/普及の父『真念/中務茂兵衛』」&□□「四国別格20霊場」について


そのⅣでは、遍路の多様化/国際化(昭和/平成~)

☆遍路の多様化/変化
◦高度成長期後、日本人価値観の変化が!?!。信仰のための遍路のほか、例えば健康/趣味(ジョギング等)の延長線に遍路が。その頃から「歩き遍路が見直される!?!」
戦後、時代と共に「お遍路さんの贅沢化」
・昔ながらのお遍路宿は敬遠されるように
  □相部屋形式を嫌い個室志向に。遍路宿を廃業した女将さん越  の声が生々しい。ある暴風時、夕方、歩き遍路さんが飛び□ □込んできた。部屋は7部屋。満室。相部屋をお願いしたとこ□ □ろ全員素知らぬ顔。やむなく断る。この時、昔の人情は何□□□処に。
時代は変わった。
□  欄間を通して隣の明かりが漏れることに苦情
□  共同風呂なのに、湯を抜き、新たにお湯を注入等々
・昔は、通常相部屋、共同風呂、食事は食堂で。お遍路の苦労□し等を共有する場であり遍路宿の良さであったと思う。

◦歩き遍路ツアーも企画され人気も上々。「高級ホテル&豪華食事歩き遍路ツアー」も
◦「道の駅を利用しての『車泊遍路』の増加?!?」等々
◦体験遍路 企業が新入社員研修で体験遍路 例えば2泊3日遍路□□□□□□(2018年は4件確認)
□□□□□□外国人が体験遍路(3日程度が多いな??!)


☆外国人歩き遍路の急増
◦ここ数年、多くの外国人遍路が現れる。特にヨーロッパ、台湾からのお遍路さんが多い。
□□その理由は四国遍路を紹介する紀行本が出版されたり、TVで四国霊場紀行等々。具体的には数年前、フランス人と台湾人等が四国遍路紀行本を出版。デンマークでは昨年?(2017年)放送局が四国霊場紀行を放映。

 また、ヨーロッパ人が多いのは日本人がサンティアゴ・デコンポステーラゴ巡礼時であった巡礼者に四国霊場を紹介。ヨーロッパ人遍路はサンティアゴ・デ・コンポステーラ経験者が多い
 今年(2018.1~2018.8.)、「遍路サロンめだかの里」等で情報を交わしたお遍路さんは251人、そのうち外国人は91人(36%)国籍は25か国にも達しています。
◦外国人遍路の特徴は
20~30歳代と若い世代が多い。

 ・野宿と宿泊施設併用。
 ・宿泊施設はドミトリ形式の簡易宿泊所を利用する傾向がある
外国人観光者増加に伴い宿に関する法律の整備と変化
・2016年(平成28年)4月、外国人観光客要望に対応するために□□旅館業法(昭和23年法律第138号)の一部改定。ホテルや旅□□館とは違い認可基準が緩和された「経営形態の一つとし簡易□□宿所」が追加となった。
□・2016年末時点の「簡易宿所数」は、全国29,559施設(愛媛県□□441施設、香川県308施設 徳島、高知?)(2018.8  日経新聞□□抜粋)この「簡易宿所」の宿経営も簡単なようで結構大変な□□ようです。?
・2018年(平成30年)6月に「住宅宿泊事業法」が施行された
□□郊外の「既存のお遍路宿」の多くは「旅館業法」の許可を受□□けていない。また、「住宅宿泊事業法:通称『民泊』」施行□□に基づき申請も検討するが「経営者の高齢化並びに設備近代□□化に要する経費等」から「住宅宿泊事業法施行」の壁をクリ□□アできず「民泊」の申請もせず従来どおり遍路宿を営業。も□□しくは、これを契機にやむなく廃業するお遍路宿もある。・近年、外国人遍路増加により遍路宿の形態も変化の兆しがみ□□られる。外国人遍路/若者日本人遍路をターゲットにドミトリ□□式の遍路宿(簡易宿所)に挑戦する方も。


今後の遍路宿の行方は???。郊外の遍路宿はピンチだ!!!
◦重複するが多くのお遍路宿経営者は高齢化している。また、お遍路さんの変化に対応できるよう近代化するにも金銭的に大変。
と言うのも「お遍路さんは3-5月、9-11月の約半年。宿泊料金も一泊二食で7000円弱」。特に海岸沿い、山間部等にある遍路宿は経営的に厳しいものがある。それにお遍路さんのマナーにも問題が、無断キャンセルも多いと聞く。キャンセルされると食材が無駄になる。経営に影響???!
◦外国人遍路が四国遍路文化の変革サインを発信!?!。
特にビジネスホテル等が無い郊外の遍路宿はどうなっていくのだろうか???。宿無地帯が出現!!?。非常に厳しい状況にある。しかし
よく耳にすることだが「外国人遍路はドミトリー形式(相部屋)の遍路宿をよく利用する」又「日本人より外国人が遍路文化を理解している/旅行マナーも良い!?!」。
外国人遍路の行動等が日本人遍路に影響が及べば好いのだが!!!。宿に関しては、「ドミトリー形式の遍路宿」の需要が増加すれば今後、昔の遍路宿(ドミトリー形式)を普及させることができる。
現在、日本人お遍路は現役引退の高齢者が大半で若者遍路が少ない。その理由はいろいろあるが、その一つとして「遍路費用が高額である」ことも影響していると思う。「ドミトリー形式の遍路宿」が普及すれば日本人若者もお遍路に挑戦しやすくなると思うのだが。


遍路宿文化を維持するには妙案が必要!!?。
遍路宿は旅館でもホテルでもない何かがあると感じるている「とある歩き遍路」。それって何!??・・・・・・。
お遍路宿はお遍路さんが安価で臨機応変に対応でき遍路宿間で遍路情報を共有し昔ながらの?!?・・・・・。
遍路宿を経営するには設備投資も高額だ。例えば、食事を提供するには家族用とお客さん用の食堂を分離する等細かい規定があるようだ!?!。特にお遍路さんだけを対象とした郊外のお遍路宿は経営の観点から非常に厳しい状況にある。
このため郊外で民家等を利用し高額費用でなくて手ごろな費用で「遍路宿」が経営できる環境整備が必要???!!!。例えば「四国遍路宿特区???」。なにか妙案を施さないと!?!
遍路宿は四国遍路文化の一つだ!!!。その遍路宿に対して不満があるのであれば遍路宿でなくビジネスホテル等を利用し遍路をしてみてはどうですかと・・・・・


・四国遍路善根宿も変化・・・・・・・・
「嫌われ者遍路宿泊施設???」 ⇒ 「お接待精神が進化し、お接待の一つとして「お遍路(特に歩き遍路)を無料で宿泊させお接待することへ????!」
善根宿を提供している家主さんも沢山いるが数年すると提供を辞める家主さんも多いと聞く。その理由は礼儀をわきまえないお遍路。お礼も言わず、掃除もせず使いたい放題。酒等を飲み大騒ぎ等々・・・・・・・
特に若いお遍路さんは「マナー」を守ろう!!!。さもなければ四国文化の一つである「善根宿」文化が消滅するかもしれないのだ!!!。
・【善根宿】とは:
大辞林より:諸国行脚の修行者・遍路、困っている旅行者を無料で泊める宿。施行せぎよう宿。
おかげ宿。
ディジタル大辞典より:修行僧や遍路、貧しい旅人などを無料で宿泊させる宿。宿泊させることは、
自ら巡礼を行うのと同じ功徳があるとされた。

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四国遍路の遷り変り(その3:観光遍路の始まり)

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ブログUP日:2018/09/13

「四国遍路の遷り変り」 修行の地四国・成立/四国遍路の大衆化/観光遍路/遍路の多様化・国際化へ 4+αに分け整理
Ⅰ.修行の地四国から四国遍路の成立(5XX~江戸期)
Ⅱ.四国遍路が一般人に開かれる(168X年~1940年代)
Ⅲ.観光遍路の時代/歩き遍路衰退(戦後~昭和/平成?)
Ⅳ.遍路の多様化/国際化(昭和/平成~)
Ⅴ.「四国88か所遍路 大衆/普及の父『真念/中務茂兵衛』」&□□「四国別格20霊場」について


そのⅢでは、観光遍路の時代(戦後~昭和/平成)について

戦後まもなく観光遍路が現れる!?!。
乗り物/観光バスを利用。歩き遍路から乗り物利用遍路へ
宿:遍路旅籠から旅館/ホテル/近代化された遍路宿?
□□昔ながらの遍路宿が衰退。旅館/ホテルがメインに。

特に四国内の道路事情の改善が進んだ昭和40年代頃から大型観光バスによる団体巡礼。
宿:旅館/ホテル。遍路旅籠の廃業/近代化(個室/料理の改善)

1989年(昭和63年)に瀬戸大橋開通が開通。四国霊場を観光するお遍路は飛躍的に増加。約30万人?!?。その後、減少。現在は約15万人と言われている。この時代は、お遍路のほとんどが車で。歩き遍路は大きく減少した。

遍路形態の変更(車遍路)&生活の向上に伴い宿は旅籠から旅館/ホテルに?!?。歩き遍路が利用していた遍路宿(旅籠)/宿坊/通夜堂が大幅に減少。歩き遍路は受難の時代へ。

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四国遍路の遷り変り(その2:四国遍路が一般人に開かれる)

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ブログUP日:2018/09/10

「四国遍路の遷り変り」 修行の地四国・成立/四国遍路の大衆化/観光遍路/遍路の多様化・国際化へ 4+αに分け整理
Ⅰ.修行の地四国から四国遍路の成立(5XX~江戸期)
Ⅱ.四国遍路が一般人に開かれる(168X年~1940年代)
Ⅲ.観光遍路の時代/歩き遍路衰退(戦後~昭和/平成?)
Ⅳ.遍路の多様化/国際化(昭和/平成~)
Ⅴ.「四国88か所遍路 大衆/普及の父『真念/中務茂兵衛』」&□□「四国別格20霊場」について


そのⅡは、四国遍路が一般人に開かれる(江戸期~昭和30年前後)

四国遍路が一般人へ開かれる(168X~)
・初めて札所番号と全札所のご詠歌を記したのは、真念によって1687年版行された『四國邊路道指南(しこくへんろみちしるべ)』の流布により本格的な修行者が行っていた遍路が一般人にも開かれることになったまた、手の形の矢印で順路を示した遍路道の石造の道しるべも篤志家によってこの時期に設置され始めたといわれる。
江戸期から戦後1940年代???までは、聖地巡礼者である僧侶、信者の他、諸国からハンセン病患者、食い詰めた「乞食遍路(差別用語)」と呼ばれる者たちが四国へ流れ込んで物乞い・強盗をはたらくなどの不埒な者も多かったため、当時の遍路は差別的な目で見られていた可能性があると思われる。 (Wikipedia抜粋)


・昭和8年(1933年)藤井寺麓の遍路宿生まれのSさんに話を聞いた昭和30年頃までは6件の遍路宿があった。Sさんの実家は8部屋、布団は150程度準備。雑魚寝が普通。食事は一汁三菜。お彼岸さん前後には多くのお遍路さんが宿泊。らい病患者、乞食遍路は宿には泊めてもらえず、仁王門周辺等で雨露を凌いでいたそうだ。また、焼山寺への山道は長蛇の列に。
・とある歩き遍路は昭和24年(1949年)生まれ。実家は「18番札所恩山寺遍路道より0.5㎞程東側にある」。幼少期の頃 (昭和30年頃)、お遍路さんが沿道の民家を托鉢。托鉢に来たお遍路さんに少しのお米を恐る恐る手渡し。幼少期、お遍路さんは物もらい/怖いものだと思っていた。
・2016年5月、写真撮影遍路で宇和島城を訪れた時、宇和島城観光ガイドさんに江戸期の宇和島城下の遍路事情を聞くことができた。『宇和島藩は、馬目木大師北側の神田川脇に「南の番所」。別格06番龍光院に「北の番所」を設け、城下に出入りする旅人を管理。お遍路さんに対しては、藩内の滞在期間は7日以内。城下の通過を禁止し、神田川沿い左回りの遍路道を辿って龍光院へ行かせる等厳しい面もあった。一方、お遍路途中、藩内で病気等困ったことがあれば庄屋等に申し出ることと御触れを出している」とのこと。
・戦前までの遍路宿は旅籠。大部屋、雑魚寝。食事は一汁三菜
現存する遍路旅籠は45番札所岩屋寺から第46番札所 浄瑠璃寺に向かう途中に遍路休憩所「坂本屋」があります。当時、「坂本屋」は立派な旅籠であったのでは???。通常の旅籠はもう少し・・・

坂本屋(2017.10)
坂本屋(2017.10)
案内板(2017.10)
案内板(2017.10)

当時、「疫病持ちのお遍路、乞食遍路?」も多く、地元の住民はこれらのお遍路の対応には苦慮したであろう???。お遍路事情に詳しい人たちの意見等から「問題?!?お遍路さんを隔離する宿が存在していたとのこと。・・・・・・『善根宿があったのかな???』」

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四国霊場の遷り変り(その1:修行の地四国から四国遍路の成立へ)

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ブログUP日:2018/09/07

「四国遍路の遷り変り」 修行の地四国・成立/四国遍路の大衆化/観光遍路/遍路の多様化・国際化へ 4+αに分け整理
Ⅰ.修行の地四国から四国遍路の成立へ(5XX~江戸期)
Ⅱ.四国遍路が一般人に開かれる(168X年~1940年代)
Ⅲ.観光遍路(車)の時代/歩き遍路衰退(戦後~昭和/平成?)
Ⅳ.遍路の多様化/国際化(昭和/平成~)
Ⅴ.「四国88か所遍路 大衆/普及の父『真念/中務茂兵衛』」&□□「四国別格20霊場」について


そのⅠは、修行の地四国から四国遍路の成立へ(5XX~江戸期)

修行の地・四国(5XX~)
古代から、都から遠く離れた四国は辺地(へじ・へぢ)と呼ばれていた。平安時代頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生まれた若き日の空海もその一人であったといわれている。空海の入定後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。これが四国遍路の原型とされる。時代が経つにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。 (Wikipedia抜粋)

四国遍路の成立(8XX~)
四国霊場を開創したのは、信仰上、空海が42歳の厄年の弘仁6年(815年)とされているが、史実ではない。ほかに、空海の死後、弟子の真済(800-860)が遺跡を巡拝したとあるが伝承の域である。その後、平安時代末期に『今昔物語集』や『梁塵秘抄』に四国辺地修行したことが書かれていたり、聖宝(832-909)や重源(1121-1206)も四国で辺地修行をし、西行は1167年に崇徳上皇を祀った白峰御陵(白峰寺)参拝をしているが、成立している形跡はない。 鎌倉時代に入ると、道範(1178-1252)が『南海流浪記』に、空海遺跡を参拝したことが書かれていたり、一遍(1239-1289)も遺跡を廻ったことが記されているが、これらは断片的で全体としての成立がなされていないことを示している。室町時代になると僧侶の修行としての巡拝だったのが、庶民にも広がったと云われている。なお、室町末期の僧・増吽(1366-1452)は、道隆寺住職の後、天皇寺住職を務め、四国の多くの社寺を復興したことから四国遍路の成立に関わっていても不思議でない。江戸時代初期になると、賢明の寛永15年(1638年)に巡拝した記録『空性法親王四国霊場御巡行記』には、現在とほぼ同じ札所がほぼ同じ順番で記されている。澄禅の日記(1653年巡拝)には、井戸寺からスタートしたものの、文中に「大師は阿波の北分十里十ケ所、霊山寺を最初にして阿波土佐伊予讃岐と順に・・」と書かれているように、番号こそ記されてないが、霊山寺が最初の札所であるのが当時慣例だったのがうかがい知れる。 (Wikipedia抜粋)

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<p style=”text-align: right;”>ブログUP日:2018/09/04</p>
<strong>「四国遍路の遷り変り」</strong>について4+αに分け整理
<span style=”color: #0000ff;”><strong>Ⅰ.修行の地四国から四国遍路の成立(5XX~江戸期)</strong></span>
<strong><a href=”http://ohenro.jp/blog/arukihenro/welcome/kb011/” target=”_blank”>Ⅱ.四国遍路が一般人に開かれる(168X年~1940年代)</a></strong>
<strong><a href=”http://ohenro.jp/blog/arukihenro/welcome/kb012/” target=”_blank”>Ⅲ.観光遍路(車)の時代/歩き遍路衰退(戦後~平成中期?)</a></strong>
<a href=”http://ohenro.jp/blog/arukihenro/welcome/kb013/” target=”_blank”><strong>Ⅳ.遍路の多様化/国際化(平成中期~)</strong></a>
<a href=”http://ohenro.jp/blog/arukihenro/welcome/kb014/” target=”_blank”><strong>Ⅴ.「四国88か所遍路 大衆/普及の父『真念/中務茂兵衛』」&<span style=”color: #ffffff;”>□□</span>「四国別格20霊場」について</strong></a>

<hr />

<span style=”color: #0000ff;”><strong>そのⅠは、修行の地四国から四国遍路の成立(5XX~江戸期)</strong></span>

<strong>修行の地・四国(5XX~)</strong>
古代から、都から遠く離れた四国は辺地(へじ・へぢ)と呼ばれていた。<a title=”平安時代” href=”https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3″>平安時代</a>頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生まれた若き日の空海もその一人であったといわれている。空海の<a title=”入定” href=”https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E5%AE%9A”>入定</a>後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。これが四国遍路の原型とされる。時代が経つにつれ、空海ゆかりの地に加え、<a title=”修験道” href=”https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E9%A8%93%E9%81%93″>修験道</a>の修行地や<a title=”足摺岬” href=”https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E6%91%BA%E5%B2%AC”>足摺岬</a>のような<a title=”” href=”https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%9C%E9%99%80%E6%B4%9B%E5%B1%B1%E5%AF%BA#補陀洛渡海”>補陀洛渡海</a>の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。 (Wikipedia抜粋)

<strong>四国遍路の成立(8XX~)</strong>
四国霊場を開創したのは、信仰上、空海が42歳の厄年の弘仁6年(815年)とされているが、史実ではない。ほかに、空海の死後、弟子の真済(800-860)が遺跡を巡拝したとあるが伝承の域である。その後、平安時代末期に『今昔物語集』や『梁塵秘抄』に四国辺地修行したことが書かれていたり、聖宝(832-909)や重源(1121-1206)も四国で辺地修行をし、西行は1167年に崇徳上皇を祀った白峰御陵(白峰寺)参拝をしているが、成立している形跡はない。 鎌倉時代に入ると、道範(1178-1252)が『南海流浪記』に、空海遺跡を参拝したことが書かれていたり、一遍(1239-1289)も遺跡を廻ったことが記されているが、これらは断片的で全体としての成立がなされていないことを示している。室町時代になると僧侶の修行としての巡拝だったのが、庶民にも広がったと云われている。なお、室町末期の僧・増吽(1366-1452)は、道隆寺住職の後、天皇寺住職を務め、四国の多くの社寺を復興したことから四国遍路の成立に関わっていても不思議でない。江戸時代初期になると、賢明の寛永15年(1638年)に巡拝した記録『空性法親王四国霊場御巡行記』には、現在とほぼ同じ札所がほぼ同じ順番で記されている。澄禅の日記(1653年巡拝)には、井戸寺からスタートしたものの、文中に「大師は阿波の北分十里十ケ所、霊山寺を最初にして阿波土佐伊予讃岐と順に・・」と書かれているように、番号こそ記されてないが、霊山寺が最初の札所であるのが当時慣例だったのがうかがい知れる。 (Wikipedia抜粋)

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「四国遍路の遷り変り」について3つの時代に分け整理s
Ⅰ.修行の地四国から大衆四国遍路へ(江戸期~昭和30年前後)
Ⅱ.観光遍路の時代(戦後~平成中期?)
Ⅲ.遍路の多様化/国際化(平成後期~)
Ⅳ.「四国88か所遍路 大衆/普及の父『真念/中務茂兵衛』」


そのⅠでは、修行の地四国から大衆四国遍路へ(江戸期~昭和30年前後)について

修行の地・四国(6XX年~)
古代から、都から遠く離れた四国は辺地(へじ・へぢ)と呼ばれていた。平安時代頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生まれた若き日の空海もその一人であったといわれている。空海の入定後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。これが四国遍路の原型とされる。時代が経つにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。 (Wikipedia抜粋)

四国霊場の成立(8XX~)
四国霊場を開創したのは、信仰上、空海が42歳の厄年の弘仁6年(815年)とされているが、史実ではない。ほかに、空海の死後、弟子の真済(800-860)が遺跡を巡拝したとあるが伝承の域である。その後、平安時代末期に『今昔物語集』や『梁塵秘抄』に四国辺地修行したことが書かれていたり、聖宝(832-909)や重源(1121-1206)も四国で辺地修行をし、西行は1167年に崇徳上皇を祀った白峰御陵(白峰寺)参拝をしているが、成立している形跡はない。 鎌倉時代に入ると、道範(1178-1252)が『南海流浪記』に、空海遺跡を参拝したことが書かれていたり、一遍(1239-1289)も遺跡を廻ったことが記されているが、これらは断片的で全体としての成立がなされていないことを示している。室町時代になると僧侶の修行としての巡拝だったのが、庶民にも広がったと云われている。なお、室町末期の僧・増吽(1366-1452)は、道隆寺住職の後、天皇寺住職を務め、四国の多くの社寺を復興したことから四国遍路の成立に関わっていても不思議でない。江戸時代初期になると、賢明の寛永15年(1638年)に巡拝した記録『空性法親王四国霊場御巡行記』には、現在とほぼ同じ札所がほぼ同じ順番で記されている。澄禅の日記(1653年巡拝)には、井戸寺からスタートしたものの、文中に「大師は阿波の北分十里十ケ所、霊山寺を最初にして阿波土佐伊予讃岐と順に・・・・」と書かれているように、番号こそ記されてないが、霊山寺が最初の札所であるのが当時慣例だったのがうかがい知れる。 (Wikipedia抜粋)

四国霊場が一般人へ開かれる(168X~)
・初めて札所番号と全札所のご詠歌を記したのは、真念によって1687年版行された『四國邊路道指南(しこくへんろみちしるべ)』の流布により本格的な修行者が行っていた遍路が一般人にも開かれることになったまた、手の形の矢印で順路を示した遍路道の石造の道しるべも篤志家によってこの時期に設置され始めたといわれる。
江戸初期から戦後1940年代???までは、聖地巡礼者である僧侶、信者の他、諸国からハンセン病患者、食い詰めた「乞食遍路(差別用語)」と呼ばれる者たちが四国へ流れ込んで物乞い・強盗をはたらくなどの不埒な者も多かったため、当時の遍路は差別的な目で見られていた可能性があると思われる。 (Wikipedia抜粋)

・昭和8年(1933年)藤井寺麓の遍路宿生まれのSさんに話を聞いた昭和30年頃までは6件の遍路宿があった。Sさんの実家は8部屋、布団は150程度準備。雑魚寝が普通。食事は一汁三菜。お彼岸さん前後には多くのお遍路さんが宿泊。らい病患者、乞食遍路は宿には泊めてもらえず、仁王門周辺等で雨露を凌いでいたそうだ。また、焼山寺への山道は長蛇の列に。
とある歩き遍路は昭和24年(1949年)生まれ。実家は「18番札所恩山寺遍路道より0.5㎞程東側にある」。幼少期の頃 (昭和30年頃)、お遍路さんが沿道の民家を托鉢。托鉢に来たお遍路さんに少しのお米を恐る恐る手渡し。幼少期、お遍路さんは物もらい/怖いものだと思っていた。
2016年5月、写真撮影遍路で宇和島城を訪れた時、宇和島城観光ガイドさんに江戸期の宇和島城下の遍路事情を聞くことができた。『宇和島藩は、馬目木大師北側の神田川脇に「南の番所」。別格06番龍光院に「北の番所」を設け、城下に出入りする旅人を管理。お遍路さんに対しては、藩内の滞在期間は7日以内。城下の通過を禁止し、神田川沿い左回りの遍路道を辿って龍光院へ行かせる等厳しい面もあった。一方、お遍路途中、藩内で病気等困ったことがあれば庄屋等に申し出ることと御触れを出している」とのこと。
・戦前までの遍路宿は旅籠。大部屋、雑魚寝。食事は一汁三菜
現存する遍路旅籠は45番札所岩屋寺から第46番札所 浄瑠璃寺に向かう途中に遍路休憩所「坂本屋」があります。当時、「坂本屋」は立派な旅籠であったのでは???。通常の旅籠はもう少し・・・

坂本屋(2017.10)
坂本屋(2017.10)
案内板(2017.10)
案内板(2017.10)

この時代、「疫病持ちのお遍路、乞食遍路?」も多く、地元の住民はこれらのお遍路の対応には苦慮したであろう???。お遍路事情に詳しい人たちの意見等から「問題?!?お遍路さんを隔離する宿が存在していたとのこと。  ・・・『善根宿であったのかな???』」

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「遍路サロンめだかの里」進化しているよ!!!

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更新日:2018/09/01

「遍路サロンめだかの里」は2018年7月1日に仮オープンした!!!。その後、日々進化しているよ!!!。

歩き遍路さんが気づくように幟の設置。

めだかの里全景(2018.7)
めだかの里全景(2018.7)
めだかの里全景 右:お遍路案内書 左:養魚場(2018.8)
めだかの里全景 右:お遍路案内書 左:養魚場(2018.8)

「お遍路サロンめだかの里」はゴウヤ/ヘチマ/緑の壁/幟が。

お遍路サロン(2018.7)
お遍路サロン(2018.7)
お遍路サロン(2018.8)
お遍路サロン(2018.8)

「お遍路サロンメダカの里」には大きな水槽が。めだか、エビ、水草、川魚が鑑賞できるよ!!!。

お遍路サロン(2018.8)
お遍路サロン(2018.8)
休憩所(2018.8)
休憩所(2018.8)

「遍路サロンめだかの里」では「歩き遍路さん」への情報提供、お接待並びに「歩き遍路さん」の情報収集をしています。是非、立ち寄って遍路道、宿情報をGETしてくださいね!!!。

めだかの孵化場をチョット紹介。約500坪の農地に400個の発砲スチロールが。青、赤、黄、白、黒等いろんなメダカがいるよ!!!。

めだかの里全景 手前:養魚場/川向う:お遍路案内所(2018.8)
めだかの里全景 手前:養魚場/川向う:お遍路案内所(2018.8)
約400個の発砲スチロールで孵化(2018.8)
約400個の発砲スチロールで孵化(2018.8)

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